推定54mg

それでも今日も生きている

掃除なんかやりたいときにやればいい

もらった皿を捨てた。

いらなくなったので捨てた。ただそれだけの話であって本来であれば特筆すべきことではないし本来でなくても特筆すべきことではない。さっき食べたサラダチキンのパッケージだって捨てた。いらないので捨てた。ただそれだけのシンプルな理論だ。

断捨離とかミニマリストとかいろいろあるし本人がやりたいならやりたいようにやればいいと思うしモノがあってもなくても幸せな人は幸せだし不幸な人は不幸だ。「断捨離してます!」と公言している人を見るたびに「この人は幸せになりたい人なんだな」とぼんやり思う。断捨離すれば幸福が呼び込めると信じているのだ。実際そういうことだろう。そういう名目で断捨離ブームは訪れたはずだ。そして「モノを捨てれば幸福が舞い込んでくる」と信じる、ということは、宗教とほとんど同じだ。「神を信じれば幸福になれます」というのとまったく変わりはない。とはいえ本人がそれで幸福ならそれでいい。宗教が疎まれる理由はただひとつ、「勧誘行為がうざいから」である。勧誘行為をしてこないなら仏教でもキリスト教でもなんでもいい。拝火教は名前がかっこいい。

断捨離をしている友人がいた。モノなんか勝手に捨てればいいんだがゴミ候補を持ってきて「要る?」と訊いてくるのは非常に困った。俺は残飯処理係か?と思ったものだ。ゴミを捨てるのは勝手だが俺を巻き込むのはよしてくれ。本人にとって不要なモノが他人にとって必要なケースなんて非常に限られている。古着だって売れるのはせいぜい2、3回着たぐらいまでのもので、5年も6年も着古した服は、もう、本人が要らなくなったらマジでただのゴミだ。ゴミを要るかと訊かれて「要らない」と答えるのも少し心苦しかった。だって当人はもしかしたらそのゴミは俺にとって価値があるかもしれないと思い込んでいるのだから。俺って何だ?ゴミを着て生きているように見えるのか?我が家はいつからゴミリサイクルセンターになったんだ?そんなこと言っていない。そう、ただ俺の性格が悪いだけの(穿ち過ぎなだけの)話だ。わかっているから疲れる。悪びれなければ何をしてもいいというわけでもない。

とはいえ誰かにとってのゴミが他の誰かにとってはお宝であることも少なくないわけで、昔見ていた開運お宝鑑定団(今もやってるのか?)なんかでは妻からガラクタ扱いされている夫の趣味品がメチャメチャすごいお宝である、ということも多々あった。いや、少々かもしれない。たいていは偽物であり安物だったように記憶している。気のせいかもしれない。マナミの捨てたゴミクズ彼氏のコウジはユミにとっていい旦那さんになっているようなことだってあるんだからこの世はわからない。

何かを捨てれば幸福になれる、と信じながら日々モノを捨て続けていくことによって、そのうち「何かを捨てなければいけない」という強迫観念に駆られるようになる。物質に依存していた精神が「捨てる」という行為への依存に変わっただけであり、当人の本質は何ら変わっていない。アル中が薬中になるようなものだ。そしてたちの悪いのは、「捨てる」依存の人間は周囲にもそれを勧めるようになってくる。完全に悪質な新興宗教だ。頼まれてもいないのに人の家の中を見て「これは要らないんじゃない?」と言い出したり自分からわざわざ家電量販店に行って「要らないモノであふれてる」とか嘆いたりする。

実家の近所に猫屋敷があった。その家からはいつも猫の臭いがした。猫はくさい。猫がくさいというか、猫の小便なんかの臭いだったのだろう。きちんとした環境で飼われている猫は特にくさくない。猫屋敷の中は猫であふれている。避妊なんかもしないので猫はどんどん増えていく。まるでその家の中で猫が煮詰まっていくかのように、どんどん、どんどん、猫が増えていく。猫を捨てればいいのに、家主はそんなことはできない。そもそも家主にはかわいい猫を捨てるなんてことはできない。だってそれはかわいそうだからだ。でも、かわいそうな猫を拾って、育てて、増えすぎた猫に充分な餌を与えてやることもできずに、中には死んでいく猫もいて、でもきちんと処理をしなくて、だから猫屋敷には猫の死体も転がっている。

実家の隣が空き家になった。そこにはもう誰も住んでいない。独居老人である家主が死んだからだ。そこにはもう何もない。精確に言うと中のモノやなんかはそのままで、ただ、家主だけがいない。家は取り残されている。けれどそれを必要な人間はもういない。そのうち潰れるだろう。何せ雪国の古い平屋だ。あと何度冬を越せるのかわからない。

何かを捨てれば幸福になれる。

今が幸福でないことの理由を、責任を、いつだって、誰かのせいにしたい。何かのせいにしたい。政治家の。官僚の。この家の中にあるものものの。

何かを不要だと思うことは何かを愛することよりよっぽど簡単だ。日常の瑣末なものごとをひとつひとつ丁寧に愛してすくっていくよりも、家の中にある何もかもを不要だと切り捨てて断罪して、何もかもをゴミ袋に詰め込むほうが。そして何もかもを捨て去ったあとにそれでも幸福になれないことに気づいたら、そのとき、そいつはいったいどうするんだろう?

 

誰かのせいにしたい

そのつまらない人生の責任を他人に押しつけたい。

誰かのせいにしたい。でも身近な誰かのせいにしたら人間として終わっているような気がする、ぐらいの倫理観(倫理観?)は持っている。だから遠くの誰かのせいにする。そいつが権力者だとなおさらいいだろう。だから政治家や官僚のせいにしておく。

自分の仕事がつまらないのは政治家や官僚のせい。

給料が安いのは政治家や官僚のせい。

生きづらいのは政治家や官僚のせい。

そこに自分の責任なんて一欠片もなくて家族や友人や身近な人の責任もない。ぜんぶぜんぶ自分の手の届かないところにいる誰かのせいだから自分の人生がつまらないのは仕方ない。だって自分ではどうにもならないことなんだから。

政治家や官僚のことを悪く言ってもいい。政治家や官僚はたくさんの給料をもらっているから。自分は安い給料で働いているのに、政治家や官僚はたくさんの給料をもらっているのだから、悪く言っても、自分に責任はない。

働くと税金が取られるからたまったもんじゃないと言う。その税金で政治家の給料が払われているんだから、と。舗装された道路を歩きながら、外灯に照らされた道の明るさを、意識することもなく、缶チューハイを飲みながら、ふらふらと歩いている。

平和な世界だ。

自分の何かを誰かのせいにしたい。そうすることで自己責任から逃れたい。

それだけだ。

心の声とか本当の自分とか何を言ってるんだ

「誰も本当の私をわかってくれない」という言葉がある。よくある。しょうもないくらいよく見かける。本当の私って何なんだ?嘘偽りのない自分のことか?だったらそこで責めるべきは「わかってくれない」他人じゃなくて、本当の自分とやらを周囲に見せない自分自身だろう。「本当の自分なんて嫌われるに違いない」?だったらそれは嫌われるような所業をしている自分が悪いんだろ。

本当の自分って何なんだ?人間は人間としての知能があるから服を着ているしそこらへんで排泄をしたりしない排泄物を垂れ流していても許されるのは動物だけだ。衣服なんて人間の本質を表しはしないけれど、服を着ずに街を歩いている人間がヤバイことはすぐにわかる。わいせつ物陳列罪とかでつかまるだろう。そういう法律がある(はずだ。詳しくはない)から、捕まる。人間は法律を破ると捕まる。社会的動物であるということは、予め社会で決められたルールを遵守するということだ。だから本当の自分とかいうやつが全裸で街を歩きたがっていても、それは許されない。法律によって許されない。同様に不倫とかなんかそういうやつもだめだし暴力や薬物もだめだ。人間って健全だね。

心の声に気づけない、とかの悩みもよく見かける。主に親や教師が悩むみたいだ。子どもの心の声に気づけないらしい。心の声って何だ?心臓は喋らない。とすると、脳の声ってことだろうか。脳も声を発しない。声を発するのは口だけだ。上の口は嫌がっても下の口は正直だぜなんていう下ネタがここで必要とされていないことぐらいハッキリわかんだね。とはいえまあ、わかってるよ、俺だって。口から発される言葉がすべてではないってことだろ。とはいえ合コンで女子が髪の毛をいじり始めたらイコールセックスができるとかそういうことじゃない。肉体言語とも違うな。まあ「言葉にしなくてもわかってよ!バカ!」みたいなことだろう。それもちがう。いやまあわかる。わかってるよ。みんなわかってるだろ。だから言わなくてもいい、と思いこむと、結果何も伝わらない。ディスコミュニケーション。心の声に気づけないというのはどういうことだろうな、まあ、思春期は大人に言えないことの一つや二つや三つや四つあって当たり前で、だから親や大人は子どもとコミュニケーションを取れるなんて思い込まないほうがいいんだろう。だって今年入ってきた新入社員さえ別次元のイキモノみたいに思って蔑んで「これだからゆとりは……」とか言うような社会なんだからゆとりより下の下の世代どもとどうにか通じ合えるなんて幻想も甚だしいだろう。おまえとそいつはわかりあえないよ。永遠にね。だから問題なのは心の声に気づけないとかそういうことじゃなくて、せめて会話で取るべきコミュニケーションさえ取れていないこと。なまじ親は子どもが言語を習得する前からそいつとコミュニケーションを取ってるから勘違いしちまうんだね。言語を習得したら言語でのコミュニケーションに終始するべきだよ。就活にまで親がついてくるような子どもになってほしいわけでなければさあ。子どもと親はあくまで別のイキモノなんだから。かつて同じイキモノであった母親と子どもでさえ、子どもが言語を習得したら、もう、完全に別のイキモノだと思ったほうがいい。生まれたての子どもは母親と引き離すと死にやすいらしいね。すごいね。生命の神秘。

誰かと通じ合いたいという切実な祈りがある。俺の中にもあってたぶん他のみんなたちにもあるだろう。それはなんだろうな、野性的な本能的な欲望なんだろうか。それとも極めて近代的な社会システムの中で造られた、造り出された嘘の欲望なんだろうか。お見合い会社あたりが「独りで淋しくない?」とかいう煽りみたいな広告を出してくると腹が立つ。結婚すなわちハッピーみたいな風潮はやめろ。そうとは限らないだろ。必ずメリットとデメリットを提示しろ、話はそれからだ。

子どもは皆おしなべて愛情に飢えていて子どもの暴力や非行はギュッと抱きしめてやれば解決するのですとか語っている専門家は今すぐMRIスキャンをしてこい。そんなのは頭をポンポンすれば女子は全員オチると思っているブサメンと同レベルの思考だ。それをやっていいのはイケメンだけであり、なおかつ対象の相手はある程度仲の良い女に限られる。あらゆる物事には向き不向きがある。

言語によるコミュニケーションには限界がある。それを踏まえた上で精一杯言語によるコミュニケーションを取らなければならない。人間は皮膚と皮膚とで断絶されている。誰も俺にはなれなくて俺は誰にもなれない。しんどい。エビスビールがうまい。以上だ。

働きたくないって何なんだ

とにかく働きたくない。まあ来月から晴れてニートである身分なのだけれど、その先のことを考えたくない。とはいえ考えなくてはいけないしこんにちワークに行ったりもしている。行動から見れば求職の意思があるので厳密にはニートとは言えないけれど本当のことを言えば働きたくない。なるべく働きたくない。なんだってこんなに働きたくないんだろう?

幼少の頃は自分が大人になることなんて信じていなかった。大人になる前に自殺しようと思っていた。大学在学中に死ぬ予定だったのに人生って上手く行かないものだ。この前もうつろな頭で東尋坊についてググっていたわけだけれど地域の人たちが自殺予防運動をしていることを知って胸を痛めてしまって「死んだらだめだ」と思った。日本のどこかに「自殺していいスポット」とかあったらいいのにな。希望者が殺到すると思う。少なくとも一千人くらいは来るだろう。何せ自殺者は三万人いるんだ。

そんなに死にたいならさっさと死んだらいい。そう思う。イッツ正論、否定しようのない真実だ。それでもなんとなく死にたくない、死ぬのが怖い、死にたいのに死にたくない。でも生きるのも嫌だ。生きたくないし死にたくない。誰かが俺に「死んでくれよ」って泣きながら懇願してくれたら俺はそいつのせいにして笑いながら死ねるだろう。誰かのために死にたい。もしくは誰かのために生きたい。誰のためにも生きたくない。生きる理由って何なんだ?生きてると実感する瞬間って人それぞれだろうけど俺はなんだかもっと痛みが欲しい。ひりつくような痛みが欲しい。手首でも切ればいいか?とんだメンヘラだ。ファンデーションテープを買おうぜ。

世の中には「働きたくない」と言いながら一つの企業に長く勤めることのできる人種がいて、そういう人間というのは、根底で「生きる」ということを疑問に思っていないのだ。働きたくない、でも生きるためには働かなきゃいけない、だから働く。そういうシンプルな理論に基づいて生きている。でも俺は基本概念が「死にたい」なわけで、嫌なことがあればすぐ死にたいし嫌なことがなくたって死にたい。コーヒーを飲みたいな、と思うぐらいの気軽さで、死にたいな、と思う。ちょっくら死んでくるわ、みたいな、感じで死んでみたい、だから誰か左手を振ってくれよ。なあ。

できるだけうまく死にたい。誰にも感知されずに死にたいし死んだあとは葬式なんかしないでほしい。俺のことを誰も彼もみんな忘れてほしい。俺なんか最初からいなかったことにしてほしい。それは無理な願いだ。だって俺は存在してしまっている。クソみたいな俺とかいう個体がもうこの世界に存在してしまっていて、それを俺がいなくなっても誰かが覚えている。百年経てば俺のことなんて誰も覚えていないけれど、十年後の世界にはきっとまだ俺を覚えている人がいる。十年なんかじゃ俺の親だってまだ生きているだろう。しんどい。

単一個体の生物になりたかった。俺は俺だけで完結したい。最初から何もないところから生まれたかった。それだって叶わない願いだ。俺は俺の親から生まれてしまった。俺は間違いなく人間であり、人間でしか在れない。人間以外の個体にはなれなくて、俺は俺以外の個体には、なれない。

どういう自分になりたいのかと考えれば答えはいつも簡単で簡潔、「俺以外の人類なら誰でもいい」。俺は俺のことが嫌いだから俺以外の全人類なら誰でも俺より素晴らしい。どんなシリアルキラーでもしょうもない薬物中毒者でも俺よりはマシだ。俺は俺のことが果てしなく嫌いで、なのに俺は俺でしか在れない。

誰かに必要とされたい。結局のところ今あるのは切実なまでのそんな下卑た祈りで、俺の死にたみはそんなアホみたいな欲望のせいかよ、と思うわけで、だったらさっさとどっかで適当な人間を引っ掛けてくりゃあいいだろという結論を出したいところだが、しかし俺は俺を嫌いなので俺を好きな人間のことなんて信用できないのであった。だったら俺を全然必要としない人間を求めりゃいいのか?そんなんも求めていない。そもそも自分の存在意義を他者に求めること自体が愚かだろう。俺の満足ぐらい俺自身で生み出すべきだ。でも俺はその能力がない。そしてまた巻き戻し、「俺はどういう俺になれば俺が俺を肯定できるんだ?」アンサー、「俺が俺である限り俺は俺を肯定できない」。

俺は俺を抜け出したい。俺じゃない生き物になりたい。俺はなんだって俺であることがこんなにしんどいんだ?俺は俺を肯定できないので俺がどんな職業に就いていてもいなくても肯定できない。俺がノルマを達成してもしなくても肯定できない。働きたくない。働いたところで、……ところで?アンサー、俺は俺のしんどみを軽減できない。なのに働くことはしんどい。毎日を笑いながらヘラヘラと働いて、働いていることも意識できないような仕事で賃金を貰えれば幸せか?そんなん巷で流行りの「好きなことで、生きていく」と変わりない。好きなことってプロモーション活動のことかよ。それは単にそういう表現活動をしたい人間の活躍の場がマスメディアからYouTubeに移行しただけの話、好きなことは目立つこと、いやそれが悪いことというわけじゃなく、ああ、まあ、そういうのが好きなら、いいんだ(ユーチューバーになりたいわけじゃない)。

働かなくても死ねないし生きる以上は働かなくてはならなくて特に生きたい欲望があるわけでもないけれどまあそのうち適当に仕事に就くんだろう。そしてまたしんどくなるんだ。年齢を重ねるごとに仕事を変えるのは難しくなるだろうからそろそろ落ち着いておきたいけれど何にせよ「安定」が向かない。ギャンブルにのめり込む自信があるね。だからギャンブルはやらない。カイジみたいになっちまう。

俺はアカギにもカイジにもなれなくてまっとうな社会人にもなれない。どこでどうやって生きていったらいいのかどんな本を読んでもわからないし誰に訊いてもわからない。この世の中はわからないことだらけで検索しても答えはない。「死にたい」と検索してこころの健康相談統一ダイヤルの番号を表示されるのはもううんざりなんだ。それでも手癖で「死にたい」と思っては検索をしてしまって検索結果の中に俺の求める答えはない。俺は俺という個体を抜け出したい。

俺が俺を嫌いな理由を俺は俺に教えてやらないといけない。とんだ自傷行為だ。その裏返しを演じれば俺は俺を好きになれるかといえばそんなことはない。俺は俺であるだけで駄目であり、ああ、ところで「俺」って何なんだ?自分探しにでも行けよ。はは。インドにでも行けば熱風とかで死ねるんじゃないか。ナイスアイディア。

結局のところ俺の「死にたい」なんて先進国特有の贅沢病であるのだろう。そんな結論を出したところで、じゃあ俺はどうやったら死にたくなくなるんだ?という疑問への答えはまた決まりきっていてもう書く意味すら見当たらない。そんなこといいからさっさと働けよ。働いたらどうなる?賃金が得られる。経済を回せる。まあ俺が死んでも一部の経済は回るんだけどな。

まあとにかく今はだるいので何も考えたくない。先の長い未来のことなんか信じてないしだからそういうことを考えるのがしんどい。日雇い労働者の才能がある。それはそれでしんどいだろう。もうわからない。やめよう。

女子高生とセックスしたい

それは侮蔑だ。

女の子をかわいいと思うことはたぶん罪悪なんだろうと思うし実際それって一歩間違えたら(というか言葉に出したら)セクハラなんだろうしとはいえ猫をかわいいと思うのと同じ回路で女の子をかわいいと思うことぐらいは許されたい。まあ思想は自由なのでかわいい女の子を見てかわいいと思うところまでは自由(発言はアウト)であってかわいい女の子とセックスをしたくたってかわいい女の子を猟奇的な手段で切り刻みたくたってそれは個々人の自由であるのだった。俺の趣味ではないのであしからず。世の中には愛ゆえにカノジョを殺したがる男もいてそういうやつは「でもカノジョ殺したらいなくなっちゃうから」とか言ってるのでマジでサイコパスだなと思う。二次元までにしておきましょう。

俺が言うセックスをしたいというのはつまり犯したいという意味であって、その意識からは「女を組み伏せたい」「力を誇示したい」とかいうような思惑が見て取れる。ように、見て取れる。二重構造だ。だって俺は別に力を誇示したくてセックスがしたいわけじゃない。そこにあるのは腹が減ったから食事をする、ぐらいの野蛮で動物的で本能的な欲求なわけであって、人間なんだから動物的欲求は説き伏せるべきとか言うようなバカは餓死して死ね。人間って二週間くらい何も食わなくても死なないらしいし肥満体の人間が餓死することはまずないらしいけど。日本における食なんてほとんど娯楽で食事が嫌いな人間もいれば好きな人間もいて好きなやつは好きなだけメシを食えばいいし嫌いなやつは必要最低限の栄養素だけ摂って暮らせばいい。俺もソイレントで暮らしたい。ともあれつまりは性事情はヒトそれぞれなので毎日擦り切れるまで自慰行為に励むやつがいれば生まれてこのかた性欲を抱いたことがないようなマグロもいるんだってこと。それは個々人の肌の色が違うのと同じようなもので、だからどうということはない。当然の歴然たる事実である、ってことぐらいの意味しかない。だから人の肌の色をどうこう言わないように、人の性欲についても、法の範囲内においては、どうも言わないのがしかるべきだろう。俺はセックスがしたい。女の子を犯したい。できれば制服の女子高生とかがいいし、女子大生でもいい。きれいなおねーさんもいいし、中学生や小学生も最高だろうなって思う。捕まりたくはないし現実でそういうのはどうかと思うのであくまで妄想。エロマンガの中ですべて済ませます。俺が性犯罪に走らないのは岡田コウのおかげだし最近読んだやつの中ではへんりいだ「はつこいりぼん。」がめちゃくちゃサイコーだった。女の子がかわいすぎて脳がドロドロに溶けていきそうだった。

女を性的な目で見れば侮辱で侮蔑で差別で蔑視。女に優しくしても優しくしなくてもうるせえ女になんか言われそうな気がして何も言えないから女ってめんどくせーなって思ったりする。実際ミソジニーとかフェミニストとかそのへんの手合にはあんまり関わりたくねえなあって思ってしまうわけであって、つっても女は奴隷とか思ってるわけじゃない、女も男も単なる人間の一種に過ぎなくてそのなかの性差ってのがどこまで鑑みられるべきなのか俺は未だにわからない。まあでも女の子には優しくしとこうぜ、と、思うわけでありますが、それさえ差別だと感じるやつもいるだろう。それが悪いということではなく。

実際、特定の女子高生とセックスしたいわけじゃなくて、なんとなくぼんやり概念としての「女子高生」と「セックス」がしたい。俺が棒で女子高生が穴。概念。それだけの話でそこにさしたる意味は無い。でもきっと女を穴扱いなんかしたらそれは侵害なんだろうと、思う。人間そのものがそもそも口からモノを入れてケツからモノを出すだけの穴なのにな。俺だって棒とか言ったけどその気になれば穴になれる。そこにさしたる意味は無い。

うまくまとまらないんだけどつまり俺は師走の翁の新刊を買いに行かないといけないんだ。

君は男になることができない

またセフレができてしまった、と君が言う。馬鹿なんじゃないかと俺は返す。そうでしょう、と君が言う。馬鹿だな。

つきあわないとできないことって案外ないものだ。学生の時はつきあって手をつないでキスをしてセックスをするものだと信じていたけれど、そう、ヒトというのは、別につきあっていなくたって手をつなげるしキスもできるしセックスもできる。結婚していなくても中出しセックスをキメていい。相手がピルを飲んでいれば最高だね。なんて言ったらきっと怒られるだろう。誰に?倫理観のある人に。

つきあうことを考えるとしんどい、と君が言う。「つきあうことって、だって、何をしたらいいの?」訊かれても俺にはわからない。デートをして食事をしてキスをしてセックスをすればいいんじゃないのかと返す。「それって別につきあってなくてもできるじゃん」と、言われても、まあ確かにそのとおりだ。君がそのようになってしまったので君はもう人とつきあうことに意味を見出せない。たとえば「つきあっていない人とキスなんてできるわけがない!」という信条を持っている人間だったら、つきあうことに意味を見出だせるだろう。そういう人間はキスをするためにセックスをするために大義名分のために人とつきあうことができる。つきあうとかつきあわないとか、結局、そこの意味ってなんなんだろうな。あくまで口約束にすぎないような気がするけれど。

それってたぶん飼い猫に首輪をつける行為みたいなもんなんじゃなかろうか。飼い猫には戸籍もないし、その猫が自分のものだって示したところできっとあんまり意味はない。首輪がなければ野良猫。誰のものでもない。首輪があれば飼い主のもの。そしてそこにさしたる意味は、ない、はずだ。責任とかそういうものがちょっとあるだけだろう。俺の実家では耐えず3匹の猫を飼っていて、昔は首輪なんてつけていなかったけれど、いつからか首輪をつけるようになった。首輪がついていてもいなくても猫本人(本猫)には何の関係もない。ただ、そう、外を歩いているときに、他人が「あの猫は○○さんの家の猫」と認識するくらいだ。

「セックスをするたびに誰も彼もが男であることに絶望する」とも、君は言う。じゃあ女の子とセックスをしたらいい。誰も君を制限はしない。「そういうことじゃない」わからない。君は君が君でしか在れないことを嘆いているし、それなのに君は君という肉の器から逃れることができない。君は君にしかなれない。君がどんなに男になりたいと願っても君は女にしかなれない。セックスとは棒と穴を使っておこなうもので、そう、君は単なる穴にしかなれない。かわいそうだね。かわいそうなのかな?穴でしか在れないこと。出産するための機械とか言われちゃうこと。ダイエットをすれば「彼氏できた?」と周囲から言われ、化粧を変えても「彼氏できた?」、髪型を変えても、洋服の趣味を変えても。女には男が必ず付随するみたいだ。君はかわいい顔をしているから尚更滑稽だ。かわいい女には男がいるべきだという風潮があるみたいで君はいつも「独り身はもったいない」と言われている。かわいい女の子って男にセックスされるためだけに存在しているんだろうか?はは。滑稽だ。彼氏がいるほうが幸せだよって、君に教えてくれるのは、いつも女の人なんだって。そのことを君が嘆くのは、もしそんな発言をするのが男だったら単なるセクハラで済むのに、っていうことだ。「彼氏がいるほうがいいって、私に言ってくれる人たちに、悪意はないの。あの人たちはみんな心からそう思ってるみたい。きっとそうなんでしょ。彼氏がいたら幸せ。そう、思えることが、幸せ」頭を抱えながら君が言う。君の幸せは一体どこにあるんだろうね。俺はそれを笑ってやる。笑っても君は傷つかない。君も君自身を笑う。「女子高生とセックスがしたい」と言うので、したらいいと返してやる。「男に生まれて、かわいい女の子とセックスがしたかった」性転換でもしたらいいのに。性同一性障害?「そんな大層なものじゃない」そう。「エロ漫画でオナニーするんだけど、男に抱かれることを考えて濡れるし、女の子を抱くことを考えても濡れる」そりゃあ一挙両得だ。たいへんにお得な話だよ、それは。「コスパ最高」ほんとにね。ははっ。「しんどい」がんばれ。

かわいい君はかわいい女として男に抱かれて消費される。君もきっとすぐにしわくちゃの老婆になるから安心するといい。「でもさあ、なんか、ババアになってもセックスしたくなるらしいよ」マジかよ。「この前できたセフレがさあ、70歳までなら抱けるって言ってて。……70になってもセックスするんだね」ジュクジュクの熟女だな。俺は小学生から高校生までしか興味がないけど。「ロリコン」せやな。でもペドじゃない。未就学児はさすがに犯罪だろう。まあ高校生だって犯罪なんだけど。だから君もロリコンなんだぜ。

「あんただってセックスをしたら男なんだよね」そうだよ。別に俺は君のことを抱きたいなんて思っちゃいないけど抱いてくれと懇願されたらおそらくきっと抱くことはできる。それは一つの悲劇に近い。そこには恋とか愛とかそういうものは微塵もなくて欲望や打算すら存在しない。興味本位のほうが百倍マシだ。君は俺とセックスがしたくなくて俺も君とセックスがしたくない。だったらセックスをしないほうがいい。単純な話だ。君は女で俺は男。ただそれだけ。オーケイ?「OK」それで終わり。

肉の器から逃れられない。君は永遠に女であり続けるしかない。どんなにあがいたところで君は穴にしかなれない。残念ながらそれは単なる事実だ。君はまたセックスをする。復讐みたいに男に抱かれる。そうやって君はまた自分が女であることを確認して傷ついて、はは、そうか、それって一種の自傷行為なんじゃないか。滑稽だ。

「しんどい」

自業自得って言葉、知ってる?

まだアフィリエイトで稼いでるの?

ブログを読んでるとアフィリエイトリンクが記事中にあったりするわけでそれ自体はどうでもいい。好きなブログのアフィリンクから物を買うことも多々あるし好きなブロガーのところにささやかなお金が行くと思うとなんだかふふふって気持ちになる。好きな人が飢え死にしている未来より好きな人が札束風呂に入っている未来のほうがよっぽどいいだろう。まあ札束風呂って破滅とワンセットっぽいイメージがあるけど。

そういうわけでアフィリエイトだ。アフィリエイト自体はどうでもいい。他人がいくら稼いでも俺の稼ぎには関係ない。たとえば「面白い本を読みました」という記事があって、その最後にその本のAmazonリンクなんかがあるようなアフィリエイトはとても微笑ましいし素敵だしそこから本を買うことは月に何度もある。

しかしあのなあ、A8とかで募集されているようなアフィリエイト記事は別だ。なぜってそれは嘘の記事だからだ。別に金で広告をすることはどうでもいい。普通のことだ。オモコロにだって宣伝記事がある。それは立派なビジネスだ。ビジネスが悪いわけじゃない。ぱっと見でアフィリエイトかわからないところに悪がある。

「ねえ、ユウコがあんたのこと好きって言ってたよ!」と言われたらどきどきするだろう。ユウコとそれほど親しくなくたってどきどきするしそうかユウコは俺のことが好きなのか……ふふっ……とか思うだろう。「ユウコめっちゃいいコだよ~!」って言われたらそうかユウコはいいコなのかと思うだろう。そう。そういうふうにミホが教えてくれたら、ミホと俺とが仲が良かったら、信じるだろう。俺とユウコはそんなに面識がないけれど、ミホが言うなら間違いないだろう、と、思い込むだろう。

しかし裏でユウコがミホに金を渡していたら話は別だ。

だってそこにあるのは「嘘」なんだ。本当にユウコがいいコなのか俺にはわからない。もちろん自分でユウコと仲良くなれば判断はつく。判断はつく。けれど外部情報くらい手に入れたい。しかし外部情報はあらかじめ操作されたものだった。Ohジーザス、俺は一体何を信じたらいいんだろう?ファック、この世はクソだ。ウソとクソはよく似ている。

しかも一度ミホが金銭目的で嘘をつく女だと知ってしまったら、俺はもうミホのことをそういう目でしか見れなくなるのだ。ミホが俺に勧めてくれる音楽も、本も、映画も、服も、何もかもが金で操作された嘘にしか見えない。そこにミホの意思はない。ミホは単なる広告にすぎない。スポンサーの思惑がそこには存在している。しかも金があるほうが買ってしまう。

ミホが俺に「駅前にできたフレンチトーストのお店が美味しいんだ!一緒に行こうよ!」と提案をしてくる。本当は駅前にある店のフレンチトーストなんか全く以て美味くはないのに、駅から少し離れたところにある店のフレンチトーストのほうがよっぽど美味いのに、ミホは俺にそれを教えない。駅前の店はミホに金を払っていて、駅から遠いほうの店はミホに金を払わないからだ。

資本力のある店が勝つ。個人店は淘汰されていく。どこかで見た景色が頭をよぎる。昔から続く商店街が近場にできた総合ショッピングセンターに駆逐されるイメージ。ばら撒かれるチラシと延々と流されるテレビCM、広大な敷地、ワンストップショッピング、大量仕入れによる大幅値下げ、そういうものを思い出す。金なんていくらでも稼げばいい。稼いだやつが使えばいい。正しい。金がすなわち嘘なんじゃない。金のために嘘をつくことがあまりにも容易なだけだ。

そういうわけでアフィ記事を見ると「またアフィ記事か」と思う。気づかずにしばらく購読していたブログがアフィ記事だらけなことに気づくとそっとブクマを外す。だってそこに本人の意思はなくあるのはただ広告したい企業の思惑だけなのだ。そんなの雑誌を読んでいるのと何も変わりはない。雑誌は広告だらけなのでひどい矛盾も放置される。前半で糖質制限ダイエットのために炭水化物をDisったかと思えば後半ではラーメン店を激プッシュしてたりする。あくまで例えです。

金を遣う人間と金に遣われる人間がいるとかよく言うけどアフィ記事を書いている人間っていうのは金に遣われてるだけなんじゃなかろうか。それで「僕は金を稼いで金を使うよ」って言うのは、まあ、子供が野球選手になりたいと言っているようなもので、非常に微笑ましい。