推定54mg

それでも今日も生きている

退職エントリ

23時すぎまでの残業が耐えがたかった、と俺は辞めた理由を人に言う。人は「それはブラックだよ」と言う。そうなんだろうか。俺はまだそこがブラックなのか判断ができずにいる。基本給とみなし残業45時間、それを超えたら残業代が支払われる会社を果たしてブラックと言ってしまっていいのだろうか。残業代が支払われない会社だって腐るほどあるのに。

23時まで残業をする。電車に揺られて40分、駅から徒歩15分。駅近くのモスバーガーで深夜0時すぎに飯を食べて帰る。翌日は9時に家を出る。勤務開始時間は10時。出られなければ遅刻なので俺は寝坊した日は寝坊したと気づくや否や自分の頭を力いっぱい殴る。罰を与えるためだった。8時間睡眠を望むのは愚かなことなので。もっとがんばっている人はたくさんいるので。会社の誰よりもがんばらないといけないので。
3月のフィードバック面談で、副社長直々に「もっとがんばるように」と言われた。4月の目標面談でも、上司に「もっとがんばるように」と言われた。俺は全然がんばっていないので、他の人と比べてがんばっていないので、俺は俺なりにがんばっているつもりだったがそれでは全然足りないので、がんばらないといけないのだった。

23時57分まで残業をする。ダッシュで駅のホームまで急ぐ。0時発の電車に乗る。どうにか帰る。深夜1時にコンビニで飯を買って帰る。

体重が10kg増える。

嘘だろみたいな気持ちになって笑ってしまう。肉体は鮮やかなほどに素直だ。俺は自分の肉体を管理できないことが情けなくて頭を殴る。俺は全然だめな人間だ。仕事ができても遅刻をしたら意味はない。他の人は俺よりも遅くまでがんばって、それなのに翌朝きちんと定時で出社する。俺にはきっと残業の才能がないのだと思った。俺は部長に言う。
「残業すると翌朝定時で来るのが難しいので、早出して、定時で上がろうと思うのですが」
部長は言う。
「そしたら残業している人に迷惑が掛かるよね?」
俺は早出をしてなおかつ残業をするようになる。
人に迷惑を掛けないように。
誰にも迷惑を掛けないように。
与えられた仕事は納期までにきちんとこなす。
急ぎの仕事には即座に応える。
管理部の人が俺を褒める。
「あなた、ディレクターからの評判がいいわよ」
そりゃそうだ、と俺は思う。
言えばすぐに応えてくれる俺は呼び出したらいつでも使えるセフレみたいなもんだろう。都合のいい人間だから好かれているだけの話だ。事実、俺はしょっちゅう遅刻するのでなんの意味もない。俺に上司が言う。
「このまま遅刻すると懲戒処分になる」
遅刻する俺を受け容れてくれる会社なんて他にあるわけがない。俺にとって今の会社が蜘蛛の糸で、よすがだった。俺はここに縋り続けなければならない。俺はエンジニア未経験で採用されていた。入社してしばらく俺がしていたことといえば、お茶くみと電話対応だった。エンジニアとしてのスキルなんて欠片もない。だから転職なんてできるわけがない。俺はここに居続けるしかない。0時まで働く。終電を逃す。定期とは異なる路線を乗り継いでどうにか帰宅する。深夜1時。ベッドにそのまま倒れて眠る。朝起きてシャワーを浴びる。甘えたい気持ちが出てくるので頭を殴ってどうにか抑える。駅までの道を歩きながら、会社を休みたい気持ちになって、その考えを捨てるために頭を殴る。会社に着けば毎日20〜30個ほどのタスクが俺を待ち望んでいる。俺は俺専用のチャットルームを作って、毎時間そこに「死にたい」「死にてえ」「死ぬなら今!NOW ON SALE!」などと書き込みながら仕事をする。早出をして、残業をすれば、誰にも迷惑はかからない。単純なことじゃないか。俺が早出と残業と休日出勤をすると上司は嬉しそうな顔をするので、俺はがんばって頭を殴りながら会社へ行く。

頭の中で声がする。
「死んだほうがいいよ」と声が囁く。
日課のソシャゲへのログインすら忘れる。
仕事がすべてになっていく。
休んだ1日を取り返すために3連休に休日出勤をする。
時間の感覚がおかしくなっていく。
俺はがんばっているのだろうか?
まだまだだ。
何もわからなくなっていく。
早く仕事をしなくては、と思う。
長時間労働で集中力が切れていく。
普段ならしないつまらないミスが増える。
定時を過ぎてから、顧客情報を操作するような複雑な仕事が襲ってくる。
ミスをする。
上司がそのカバーをする。
上司に、定時過ぎにはそういう仕事を振らないでくれと陳情する。
上司が言う。
「君のミスを俺のせいにするんだ?」
そういうことじゃない。
でも、そういうことだ。
俺が悪い。
俺がミスをしたのが悪い。
俺は俺が嫌いだ。ミスをする俺が嫌いだ。集中できない俺が嫌いだ。俺は仕事ができる。いや、できない。できる。できない。わからない。俺はもっともっとがんばらないといけない。会社で手首を切る。ペーパータオルとガムテープで傷口を抑える。手首を切ると安心できた。頭の中の声がする。「やっちゃったね」うるさい声がする。
声をやませるために頭を殴る。トイレで俺は頭を打ちつける。誰もいないトイレならなんでもできる。頭を殴ることも、壁に打ちつけることも、手首を切ることも。それが束の間の安息になる。

仕事をする。
上司からメールが来る。
「君が俺のことを嫌いなのはわかっているけれど」
そんなことはない。
俺は。
そんなんじゃないんだ。
俺が嫌いなのは俺だけなんだ。
他の誰のことも俺は嫌いじゃない。
伝わらない。
何ひとつ。
意味がない。
上司が喜ぶからしている早出も、残業も、休日出勤も、何もかも。
涙が出てくる。
仕事が終わらない。
仕事がたくさんある。
日々襲い来るタスク、それをこなす、時には新人に割り振る、新人への指導をする。俺が開発しないといけない案件がある、俺が、俺が、俺が、俺が、

呼吸ができなくなる。
息の仕方を忘れる。
手首を切りたい気持ちを抑えながら、作成したファイルをアップロードしようとするのに、指が動かない。
がん、と音がして、キーボードに俺は頭を打っていた。
呼吸ができない。震える。
過呼吸だ。
周囲の人が寄ってくる。
俺は前にも過呼吸を起こしたことがあるので問題はない。
俺は俺に詳しいんだ。
呼吸ができなくて、
このまま死ねれば、
幸せなのに。

死ねないまま俺はタクシーで家に帰る。心配してくれる隣のチームの人が優しくて涙が出た。俺は最低の人間なのにな、と思うし、俺の頭はさっきたぶん壊れてしまったし、壊れる前に心配してほしかったな、とも思う。でもその人だって俺よりずっと忙しいんだからそんな甘えは許されない。俺よりも、俺の上司や、部長や、他チームの人のほうが、ずっとずっと忙しい。だから俺はその人たちに何かをしてもらうことは許されない。効率化を求めてはいけない。共有不足を指摘してはいけない。指示ミスを指摘してはいけない。

死のう、と思う。

途端に何もかもが可笑しくなって、俺は家で大声で笑いながらゴミ箱を蹴飛ばした。俺は全然何も変わっていない!頭がどうかしている!頭の中の声がやまない!手首を切りたい!頭がおかしい!ただそれだけ。すがる気持ちで近くの心療内科へ電話をする。電話がつながらない。もう一個の心療内科へ電話をする。「次に予約が取れるのは二週間後です」。そうですかと電話を切る。二週間。二週間!そのときの俺にとっては永遠にも思える時間だった。五秒先を生きているだけで、褒め称えてほしいレベルだった。

結局、電車で十五分ほどの距離にある心療内科の予約をどうにか取って、薬を処方してもらって、会社を辞めた。これ以上いても会社に迷惑を掛けるだけだと判断してのことだった。どうでもいい、とも思った。俺が生きていようとも、死んでいようとも。
死にたいのに死ねないのがとてつもなく苦しかった。薬を飲むと死にたい気持ちが薄まってだいぶラクになった。頭を殴りたい気持ちもなくなった。もっと早く来ればよかったのに、そうすれば仕事を辞めずに済んだのに、と頭の中で声がする。そうだな、俺もそう思うよ。なんでそうできなかったんだろうな。だいじょうぶだと思っていたんだよ。頭を殴りながらしか、生きていくことができなかったのに。

離職票が届きハローワークに行く。うつの診断があれば失業給付がすぐにもらえると聞いたんですけど、と言うと、初診日を訊かれ、答えると、
「その日じゃ無理ですね」
と言われる。
在職中に通いはじめてないとダメなんだそうだ。なるほどね。世界はよくできている。
頭をダメにするまでがんばったのに、俺は普通に普通の自己都合退職者だった。世界から嫌われているような気がして仕方ない。頭の中で声がする。「やっぱり死ぬチャンスじゃない?」そうだね。そうだな。薬を飲む。泣きながら薬を飲む。オーバードーズしたい気持ちを抑えながら、規定量だけで我慢する。ODをすると、次回以降きちんと処方されないことがあるからだ。俺はちゃんと規定量を守る。死にたい。死んだほうがいい。死にたい。死にたい。……死にたい。

死ねないまんまで生きている。俺は今日も変わらず俺だった。かなしいことに。
早く俺が俺じゃなくなる方法を教えてください。それがかなわないなら、誰か、俺を殺して。