推定54mg

それでも今日も生きている

掃除なんかやりたいときにやればいい

もらった皿を捨てた。

いらなくなったので捨てた。ただそれだけの話であって本来であれば特筆すべきことではないし本来でなくても特筆すべきことではない。さっき食べたサラダチキンのパッケージだって捨てた。いらないので捨てた。ただそれだけのシンプルな理論だ。

断捨離とかミニマリストとかいろいろあるし本人がやりたいならやりたいようにやればいいと思うしモノがあってもなくても幸せな人は幸せだし不幸な人は不幸だ。「断捨離してます!」と公言している人を見るたびに「この人は幸せになりたい人なんだな」とぼんやり思う。断捨離すれば幸福が呼び込めると信じているのだ。実際そういうことだろう。そういう名目で断捨離ブームは訪れたはずだ。そして「モノを捨てれば幸福が舞い込んでくる」と信じる、ということは、宗教とほとんど同じだ。「神を信じれば幸福になれます」というのとまったく変わりはない。とはいえ本人がそれで幸福ならそれでいい。宗教が疎まれる理由はただひとつ、「勧誘行為がうざいから」である。勧誘行為をしてこないなら仏教でもキリスト教でもなんでもいい。拝火教は名前がかっこいい。

断捨離をしている友人がいた。モノなんか勝手に捨てればいいんだがゴミ候補を持ってきて「要る?」と訊いてくるのは非常に困った。俺は残飯処理係か?と思ったものだ。ゴミを捨てるのは勝手だが俺を巻き込むのはよしてくれ。本人にとって不要なモノが他人にとって必要なケースなんて非常に限られている。古着だって売れるのはせいぜい2、3回着たぐらいまでのもので、5年も6年も着古した服は、もう、本人が要らなくなったらマジでただのゴミだ。ゴミを要るかと訊かれて「要らない」と答えるのも少し心苦しかった。だって当人はもしかしたらそのゴミは俺にとって価値があるかもしれないと思い込んでいるのだから。俺って何だ?ゴミを着て生きているように見えるのか?我が家はいつからゴミリサイクルセンターになったんだ?そんなこと言っていない。そう、ただ俺の性格が悪いだけの(穿ち過ぎなだけの)話だ。わかっているから疲れる。悪びれなければ何をしてもいいというわけでもない。

とはいえ誰かにとってのゴミが他の誰かにとってはお宝であることも少なくないわけで、昔見ていた開運お宝鑑定団(今もやってるのか?)なんかでは妻からガラクタ扱いされている夫の趣味品がメチャメチャすごいお宝である、ということも多々あった。いや、少々かもしれない。たいていは偽物であり安物だったように記憶している。気のせいかもしれない。マナミの捨てたゴミクズ彼氏のコウジはユミにとっていい旦那さんになっているようなことだってあるんだからこの世はわからない。

何かを捨てれば幸福になれる、と信じながら日々モノを捨て続けていくことによって、そのうち「何かを捨てなければいけない」という強迫観念に駆られるようになる。物質に依存していた精神が「捨てる」という行為への依存に変わっただけであり、当人の本質は何ら変わっていない。アル中が薬中になるようなものだ。そしてたちの悪いのは、「捨てる」依存の人間は周囲にもそれを勧めるようになってくる。完全に悪質な新興宗教だ。頼まれてもいないのに人の家の中を見て「これは要らないんじゃない?」と言い出したり自分からわざわざ家電量販店に行って「要らないモノであふれてる」とか嘆いたりする。

実家の近所に猫屋敷があった。その家からはいつも猫の臭いがした。猫はくさい。猫がくさいというか、猫の小便なんかの臭いだったのだろう。きちんとした環境で飼われている猫は特にくさくない。猫屋敷の中は猫であふれている。避妊なんかもしないので猫はどんどん増えていく。まるでその家の中で猫が煮詰まっていくかのように、どんどん、どんどん、猫が増えていく。猫を捨てればいいのに、家主はそんなことはできない。そもそも家主にはかわいい猫を捨てるなんてことはできない。だってそれはかわいそうだからだ。でも、かわいそうな猫を拾って、育てて、増えすぎた猫に充分な餌を与えてやることもできずに、中には死んでいく猫もいて、でもきちんと処理をしなくて、だから猫屋敷には猫の死体も転がっている。

実家の隣が空き家になった。そこにはもう誰も住んでいない。独居老人である家主が死んだからだ。そこにはもう何もない。精確に言うと中のモノやなんかはそのままで、ただ、家主だけがいない。家は取り残されている。けれどそれを必要な人間はもういない。そのうち潰れるだろう。何せ雪国の古い平屋だ。あと何度冬を越せるのかわからない。

何かを捨てれば幸福になれる。

今が幸福でないことの理由を、責任を、いつだって、誰かのせいにしたい。何かのせいにしたい。政治家の。官僚の。この家の中にあるものものの。

何かを不要だと思うことは何かを愛することよりよっぽど簡単だ。日常の瑣末なものごとをひとつひとつ丁寧に愛してすくっていくよりも、家の中にある何もかもを不要だと切り捨てて断罪して、何もかもをゴミ袋に詰め込むほうが。そして何もかもを捨て去ったあとにそれでも幸福になれないことに気づいたら、そのとき、そいつはいったいどうするんだろう?