推定54mg

それでも今日も生きている

まだアフィリエイトで稼いでるの?

ブログを読んでるとアフィリエイトリンクが記事中にあったりするわけでそれ自体はどうでもいい。好きなブログのアフィリンクから物を買うことも多々あるし好きなブロガーのところにささやかなお金が行くと思うとなんだかふふふって気持ちになる。好きな人が飢え死にしている未来より好きな人が札束風呂に入っている未来のほうがよっぽどいいだろう。まあ札束風呂って破滅とワンセットっぽいイメージがあるけど。

そういうわけでアフィリエイトだ。アフィリエイト自体はどうでもいい。他人がいくら稼いでも俺の稼ぎには関係ない。たとえば「面白い本を読みました」という記事があって、その最後にその本のAmazonリンクなんかがあるようなアフィリエイトはとても微笑ましいし素敵だしそこから本を買うことは月に何度もある。

しかしあのなあ、A8とかで募集されているようなアフィリエイト記事は別だ。なぜってそれは嘘の記事だからだ。別に金で広告をすることはどうでもいい。普通のことだ。オモコロにだって宣伝記事がある。それは立派なビジネスだ。ビジネスが悪いわけじゃない。ぱっと見でアフィリエイトかわからないところに悪がある。

「ねえ、ユウコがあんたのこと好きって言ってたよ!」と言われたらどきどきするだろう。ユウコとそれほど親しくなくたってどきどきするしそうかユウコは俺のことが好きなのか……ふふっ……とか思うだろう。「ユウコめっちゃいいコだよ~!」って言われたらそうかユウコはいいコなのかと思うだろう。そう。そういうふうにミホが教えてくれたら、ミホと俺とが仲が良かったら、信じるだろう。俺とユウコはそんなに面識がないけれど、ミホが言うなら間違いないだろう、と、思い込むだろう。

しかし裏でユウコがミホに金を渡していたら話は別だ。

だってそこにあるのは「嘘」なんだ。本当にユウコがいいコなのか俺にはわからない。もちろん自分でユウコと仲良くなれば判断はつく。判断はつく。けれど外部情報くらい手に入れたい。しかし外部情報はあらかじめ操作されたものだった。Ohジーザス、俺は一体何を信じたらいいんだろう?ファック、この世はクソだ。ウソとクソはよく似ている。

しかも一度ミホが金銭目的で嘘をつく女だと知ってしまったら、俺はもうミホのことをそういう目でしか見れなくなるのだ。ミホが俺に勧めてくれる音楽も、本も、映画も、服も、何もかもが金で操作された嘘にしか見えない。そこにミホの意思はない。ミホは単なる広告にすぎない。スポンサーの思惑がそこには存在している。しかも金があるほうが買ってしまう。

ミホが俺に「駅前にできたフレンチトーストのお店が美味しいんだ!一緒に行こうよ!」と提案をしてくる。本当は駅前にある店のフレンチトーストなんか全く以て美味くはないのに、駅から少し離れたところにある店のフレンチトーストのほうがよっぽど美味いのに、ミホは俺にそれを教えない。駅前の店はミホに金を払っていて、駅から遠いほうの店はミホに金を払わないからだ。

資本力のある店が勝つ。個人店は淘汰されていく。どこかで見た景色が頭をよぎる。昔から続く商店街が近場にできた総合ショッピングセンターに駆逐されるイメージ。ばら撒かれるチラシと延々と流されるテレビCM、広大な敷地、ワンストップショッピング、大量仕入れによる大幅値下げ、そういうものを思い出す。金なんていくらでも稼げばいい。稼いだやつが使えばいい。正しい。金がすなわち嘘なんじゃない。金のために嘘をつくことがあまりにも容易なだけだ。

そういうわけでアフィ記事を見ると「またアフィ記事か」と思う。気づかずにしばらく購読していたブログがアフィ記事だらけなことに気づくとそっとブクマを外す。だってそこに本人の意思はなくあるのはただ広告したい企業の思惑だけなのだ。そんなの雑誌を読んでいるのと何も変わりはない。雑誌は広告だらけなのでひどい矛盾も放置される。前半で糖質制限ダイエットのために炭水化物をDisったかと思えば後半ではラーメン店を激プッシュしてたりする。あくまで例えです。

金を遣う人間と金に遣われる人間がいるとかよく言うけどアフィ記事を書いている人間っていうのは金に遣われてるだけなんじゃなかろうか。それで「僕は金を稼いで金を使うよ」って言うのは、まあ、子供が野球選手になりたいと言っているようなもので、非常に微笑ましい。