推定54mg

それでも今日も生きている

生きることは死に続けることに似ている

日記をつけている。

このブログを書くのは久々のことになるが紙の日記帳にはほぼ毎日きちんと書いている。愛用文具はモレスキンとLAMY AL-Star(EF)、そう書けばまるで上流生活者のような気配を感じさせることができるような気がしている。気のせいだ。イッツ思い込み。

 

日々はあっちゅう間に消えていって消え去っていって、たとえば8月下旬の俺は風俗店で働いてきた。そこでは気軽に春がひさがれていた。そこには倫理とかそういうものがないような気がして少し居心地がよかった。旦那も子供もいて身体を売る主婦とか、単に趣味みたいな感じで来ている女の子とか、そういう、女の子を売り払って金銭を得ている男たちとか、誰も彼も罪悪感なんて抱いていないみたいだった。それが。心地よかった。世間一般の常識とか良識が関与していない感じがした。女の子に給料を渡すときは手渡しで、雇用契約書なんかなくて、だからそう、風俗一本で稼いでいる女の子はたぶん世間的には無職なんだろうなって思った。全部の店がそうなのかはわからないけど。

 

9月からはパソコンスクールみたいなところに通い始めた。プログラミングを少し勉強している。そして働いてはいなくて、今もなお絶賛無職中だ。

驚くべきことに、働くことをやめてから、人格がきちんと統合された。以前は頭の中でいくつもいくつも響いていた人格の声がなくなった。大合唱のように鳴り響く「死ーね!死ーね!」という声も聞こえなくなった。コーヒーを飲もう、と思うくらいの気軽さで「あ、死のう」と思うことも、なくなった。

だから俺は過去の俺が書いた日記帳を、「死にたい」「死ぬしかない」「死ぬなら今!ファイト!」と書かれたページを、まるで他人の書いたもののように読むことができる。そのページは落ちた涙の水滴でよれて、万年筆のインクは滲んでいる。死にたくて死にたくて死ぬしかなくて、それなのに死ねなくて、生きていて、それは、あるいは、悲劇だ。悲劇を今も続けている。死ねなかったから。

 

過去の俺は死んでしまって今ここにいるのは別の俺だ。しかしながらどれもこれもが俺であり、とはいえ、死にたい俺と生きたい俺はきっと永遠に分かり合えない。生きて、生きて、何かを遺したい、と思う。今は。それが何なのかはまだわからないけれど。遺す、ということが、生きることの意味なのではないだろうか、なんて考えた。この無職期間中に。

 

来月からは就職活動が始まって、そしたらきっとまた自意識がバキバキにされて死にたくなるんだろう。それでも生きて、今の俺と未来の俺は解釈違いを起こして、今の俺はいつの間にかいなくなって駆逐されて淘汰された俺だけが残る。自分自身と闘い続けて現実をサヴァイブしていく。それは、死に続けることに、よく似ている。