推定54mg

それでも今日も生きている

働きたくないって何なんだ

とにかく働きたくない。まあ来月から晴れてニートである身分なのだけれど、その先のことを考えたくない。とはいえ考えなくてはいけないしこんにちワークに行ったりもしている。行動から見れば求職の意思があるので厳密にはニートとは言えないけれど本当のことを言えば働きたくない。なるべく働きたくない。なんだってこんなに働きたくないんだろう?

幼少の頃は自分が大人になることなんて信じていなかった。大人になる前に自殺しようと思っていた。大学在学中に死ぬ予定だったのに人生って上手く行かないものだ。この前もうつろな頭で東尋坊についてググっていたわけだけれど地域の人たちが自殺予防運動をしていることを知って胸を痛めてしまって「死んだらだめだ」と思った。日本のどこかに「自殺していいスポット」とかあったらいいのにな。希望者が殺到すると思う。少なくとも一千人くらいは来るだろう。何せ自殺者は三万人いるんだ。

そんなに死にたいならさっさと死んだらいい。そう思う。イッツ正論、否定しようのない真実だ。それでもなんとなく死にたくない、死ぬのが怖い、死にたいのに死にたくない。でも生きるのも嫌だ。生きたくないし死にたくない。誰かが俺に「死んでくれよ」って泣きながら懇願してくれたら俺はそいつのせいにして笑いながら死ねるだろう。誰かのために死にたい。もしくは誰かのために生きたい。誰のためにも生きたくない。生きる理由って何なんだ?生きてると実感する瞬間って人それぞれだろうけど俺はなんだかもっと痛みが欲しい。ひりつくような痛みが欲しい。手首でも切ればいいか?とんだメンヘラだ。ファンデーションテープを買おうぜ。

世の中には「働きたくない」と言いながら一つの企業に長く勤めることのできる人種がいて、そういう人間というのは、根底で「生きる」ということを疑問に思っていないのだ。働きたくない、でも生きるためには働かなきゃいけない、だから働く。そういうシンプルな理論に基づいて生きている。でも俺は基本概念が「死にたい」なわけで、嫌なことがあればすぐ死にたいし嫌なことがなくたって死にたい。コーヒーを飲みたいな、と思うぐらいの気軽さで、死にたいな、と思う。ちょっくら死んでくるわ、みたいな、感じで死んでみたい、だから誰か左手を振ってくれよ。なあ。

できるだけうまく死にたい。誰にも感知されずに死にたいし死んだあとは葬式なんかしないでほしい。俺のことを誰も彼もみんな忘れてほしい。俺なんか最初からいなかったことにしてほしい。それは無理な願いだ。だって俺は存在してしまっている。クソみたいな俺とかいう個体がもうこの世界に存在してしまっていて、それを俺がいなくなっても誰かが覚えている。百年経てば俺のことなんて誰も覚えていないけれど、十年後の世界にはきっとまだ俺を覚えている人がいる。十年なんかじゃ俺の親だってまだ生きているだろう。しんどい。

単一個体の生物になりたかった。俺は俺だけで完結したい。最初から何もないところから生まれたかった。それだって叶わない願いだ。俺は俺の親から生まれてしまった。俺は間違いなく人間であり、人間でしか在れない。人間以外の個体にはなれなくて、俺は俺以外の個体には、なれない。

どういう自分になりたいのかと考えれば答えはいつも簡単で簡潔、「俺以外の人類なら誰でもいい」。俺は俺のことが嫌いだから俺以外の全人類なら誰でも俺より素晴らしい。どんなシリアルキラーでもしょうもない薬物中毒者でも俺よりはマシだ。俺は俺のことが果てしなく嫌いで、なのに俺は俺でしか在れない。

誰かに必要とされたい。結局のところ今あるのは切実なまでのそんな下卑た祈りで、俺の死にたみはそんなアホみたいな欲望のせいかよ、と思うわけで、だったらさっさとどっかで適当な人間を引っ掛けてくりゃあいいだろという結論を出したいところだが、しかし俺は俺を嫌いなので俺を好きな人間のことなんて信用できないのであった。だったら俺を全然必要としない人間を求めりゃいいのか?そんなんも求めていない。そもそも自分の存在意義を他者に求めること自体が愚かだろう。俺の満足ぐらい俺自身で生み出すべきだ。でも俺はその能力がない。そしてまた巻き戻し、「俺はどういう俺になれば俺が俺を肯定できるんだ?」アンサー、「俺が俺である限り俺は俺を肯定できない」。

俺は俺を抜け出したい。俺じゃない生き物になりたい。俺はなんだって俺であることがこんなにしんどいんだ?俺は俺を肯定できないので俺がどんな職業に就いていてもいなくても肯定できない。俺がノルマを達成してもしなくても肯定できない。働きたくない。働いたところで、……ところで?アンサー、俺は俺のしんどみを軽減できない。なのに働くことはしんどい。毎日を笑いながらヘラヘラと働いて、働いていることも意識できないような仕事で賃金を貰えれば幸せか?そんなん巷で流行りの「好きなことで、生きていく」と変わりない。好きなことってプロモーション活動のことかよ。それは単にそういう表現活動をしたい人間の活躍の場がマスメディアからYouTubeに移行しただけの話、好きなことは目立つこと、いやそれが悪いことというわけじゃなく、ああ、まあ、そういうのが好きなら、いいんだ(ユーチューバーになりたいわけじゃない)。

働かなくても死ねないし生きる以上は働かなくてはならなくて特に生きたい欲望があるわけでもないけれどまあそのうち適当に仕事に就くんだろう。そしてまたしんどくなるんだ。年齢を重ねるごとに仕事を変えるのは難しくなるだろうからそろそろ落ち着いておきたいけれど何にせよ「安定」が向かない。ギャンブルにのめり込む自信があるね。だからギャンブルはやらない。カイジみたいになっちまう。

俺はアカギにもカイジにもなれなくてまっとうな社会人にもなれない。どこでどうやって生きていったらいいのかどんな本を読んでもわからないし誰に訊いてもわからない。この世の中はわからないことだらけで検索しても答えはない。「死にたい」と検索してこころの健康相談統一ダイヤルの番号を表示されるのはもううんざりなんだ。それでも手癖で「死にたい」と思っては検索をしてしまって検索結果の中に俺の求める答えはない。俺は俺という個体を抜け出したい。

俺が俺を嫌いな理由を俺は俺に教えてやらないといけない。とんだ自傷行為だ。その裏返しを演じれば俺は俺を好きになれるかといえばそんなことはない。俺は俺であるだけで駄目であり、ああ、ところで「俺」って何なんだ?自分探しにでも行けよ。はは。インドにでも行けば熱風とかで死ねるんじゃないか。ナイスアイディア。

結局のところ俺の「死にたい」なんて先進国特有の贅沢病であるのだろう。そんな結論を出したところで、じゃあ俺はどうやったら死にたくなくなるんだ?という疑問への答えはまた決まりきっていてもう書く意味すら見当たらない。そんなこといいからさっさと働けよ。働いたらどうなる?賃金が得られる。経済を回せる。まあ俺が死んでも一部の経済は回るんだけどな。

まあとにかく今はだるいので何も考えたくない。先の長い未来のことなんか信じてないしだからそういうことを考えるのがしんどい。日雇い労働者の才能がある。それはそれでしんどいだろう。もうわからない。やめよう。