推定54mg

それでも今日も生きている

まともってどういうことなんだ

「まともになりたい」っていうのはマジでめちゃくちゃ切実な祈りで、そして同時にそれは叶わない願いだ。だって「まともになりたい」って思うってことは現状でまともじゃないってことで、それで、がんばってがんばって「まともになった!」って思っても、そうやって「まともかどうか」を気にする時点でそれって全然まともじゃないような気がするからだ。

「そんなんじゃおまえは社会でやっていけない」と中学のときに社会不適合者の烙印を押された。当時はんなワケねーだろ俺はまっとうに社会で生きていけるわ、と思っていたけど、今になってみると確かにそうだなと思う。授業を受けていると手首を切りたくなるので選択的保健室登校をしていた俺に対して投げかけられた心優しきクソ担任の言葉だった。つまり俺は授業を受けながら手首を切ってそれでも椅子に縛りつけられていればよかったんだ。ウソだろ。クソだよ。授業中に隣のやつが手首切り出したらトラウマだろう。なあ。でもたぶん俺は自分の見栄のために保健室登校を選んだんだろう。手首を切りながら授業を受けていたら、そしたら俺は精神障害の判定でもしてもらえただろう、でも俺は残念ながらまともだったので保健室登校を選んだ。でもそれはまともじゃないことだった。だって教室の中の圧倒的大多数は席に座って大人しく授業を受けているわけで、その大多数から外れるというのはつまり「まともじゃない」ということだからだ。俺は俺の判断基準によれば、俺は「まとも」なので中学三年間に一度だって窓から飛び降りなかった。本当は飛び降りてしまいたかった。飛び降りたら気持ちいいだろうと思った。けれど中学の校舎は三階建てで、そこから飛び降りたって死ねないだろうことはわかりきっていた。そうするとそこで飛び降りたところで、結果としてはただの自殺未遂、失敗、そして近所の噂話、が残るだけだ、ということを、わかっていた。それを判断する程度の頭はあった。おせっかいな委員長が俺を授業に引き戻そうとしたこともあった。最高に最悪な厚意だ。そういうやつからすると俺は「まともじゃない」わけであって、そう、授業に出るのが「普通」、授業に出るのは「普通じゃない」、そして「普通じゃない」ことは、「悪いこと」「まともじゃないこと」なのだ。

「まともである」ということは、「普通」とか「大多数」とか、「常識」「社会生活」みたいなものに似ている。だからみんながやっていることを何の疑問も持たずにこなすことができたら、それが、たぶん、「まとも」であるってことなんだと思う。何の疑問も持たずにいられること。何にかと言えば、「自分が生きていることに、何の疑問も抱かないこと」だ。自己肯定とかいう胡散臭い言葉に置き換えるのは非常に癪だが、結局、そういうことなんだろう。自分が生きていていいと思えること。自分が生きていることに何の疑問も抱かずに、死ぬまで、生きること。なぜ生きるのかなんて疑問は抱かない。生にそんな大層な意味はないのだ。ただの繁殖、生殖、そういう自然の摂理の一つでしかない。そこに意味を持たせたがるのは愚かだ。愚かなのに意味が欲しいし、意味が欲しいのは、意味があれば自分の生を肯定できるような気がするからだ。

自分の生を肯定したい。

自分の生を否定する要因ならいくつでも出てきてくれる。無職であるとか独身であるとか正社員経験がないとか、そういう肩書的なことを抜きにしても俺は俺という人間が圧倒的クズであることを知っている。知っているから好きなだけ自分を否定できる。俺なんか生まれないほうがよかったし生まないほうがよかった。俺が俺であってかわいそうだ。俺自身がかわいそうだし俺の親だってかわいそうだ。苦しい。苦しくてつらくて布団にくるまってなんでこんなに苦しいのかと泣きながら考えて結論を出す、「俺がまともじゃないからこんなにつらいんだ」。まるで堂々巡りだ。

「まともになりたい」と思って、まともとはどういうことかを書き連ねていってその条件をすべて満たして「まとも」になれたところできっと俺はちっとも救われない。「正社員雇用されていること」「毎日決まった時間に起きること」「朝食をいつも食べること」とか、そういう、まともそうな条件を、満たして、そうやって「俺はまともだ!」と思えたところで、たとえばそれがある日崩れ去ったら全ては元の木阿弥だ。

「まともになりたい」の、近いイメージとしては、「自分以外の誰かになりたい」だ。あくまで俺の場合。まともになりたい、自分はまともじゃないからまともになりたい、自分以外の、誰か、まともな人に。けれど残念ながら俺は俺でしか在れなくて俺は俺を抜け出せない。自分自身の生を肯定したい。しかし俺を否定するのは他のだれでもない俺自身なのであって、だからそれが、一番苦しい。「自分を受け入れることが大事」だなんていうのはわかっていてわかりきっていて、そう、結局、そうするしかないんだろう。クズみたいなクソみたいな自分を受け入れて、ありのままの自分とかいう宗教みたいな考え方をインストールすることが、大事なんだろう。でもそれでも、わかっていても、まだそれを受け入れたくない、と、思ってしまう。だって俺は俺のアイデンティティが「まともじゃないこと」だと思い込んでいるからだ。

結局「まともじゃない」ことを特別な価値にしたいだけなんじゃないのか?メンヘラぶって、特別な自分に酔っているだけなんじゃないのか?自己肯定できないとかいう甘えなんじゃないのか?やめろ。自分で自分を追い詰めるような真似はやめろ。俺がまともかまともじゃないかで言えば圧倒的まともだし俺はこうして日本語を書けているし他人とのコミュニケーションはそこそこできる、とはいえコミュ障、ああもうわからないな、考えたくない。まともとかまともじゃないとか、判断を他人に委ねるべきじゃなくて、きっと、そう、判断するのは俺だ。俺が俺を査定する。そしてその査定結果が思わしくないので、苦しい。ただそれだけだ。

クズでもクソでもまともじゃなくても平気で生きている人間は案外けっこういるもんだ。不倫しててもそれを悪いことだなんて思っていないやつもいるし、無職でも平気なやつもいるし、なんか、だから、そういうダメな自分を受け入れられれば、あとは大丈夫なんだろうなあ。自己分析?自己肯定?宗教じみている。しかしながらそれが真実や真理に近そうなので、唸るしかない。俺はクズでクソでダメ人間で、それを、受け入れる。……受け入れたくねーなあ。