推定54mg

それでも今日も生きている

式典は形骸化されている

入学式とか卒業式とか結婚式だとかはそこに出席する人間のものであるけれど葬式だけはそこにいない人間のためのものであるのだった。しかしながらその人のためとかいう大義名分は存在していて、けれど、その人はもう死んでいるからその人は喜ばない。だとしたらその人のために、と、思うことのすべては生きているうちだけがすべてだろう。その人を愛してるならその人が生きているうちに伝えなきゃいけなかったし、もっと生きてほしかった、とか、そういうこともやっぱり、死んでから泣いて言っても遅いのだ。

高校の卒業式の日、好きなバンドの解散ライブがあった。それは俺から遠い土地でひらかれるライブであり、けれどがんばれば行ける程度の土地での、ライブであって、チケットの倍率は当然めちゃくちゃ高かったけれど、そう、いや、俺はそのチケットを取ることさえ、しなくて、そのことを今も後悔している。卒業式があるから行けないことはわかっていた。そんなことを、卒業式よりもライブを優先させることを、親が許すはずがないことを、わかっていたし、実際、冗談交じりに訊いて、そんなことはだめだときっぱり言われた。ですよね。

でも、それでも、俺はあのとき、ライブを優先させるべきだった。卒業式に出席しなくてもよかった。だって高校の卒業式なんて俺にとってあまり意味は無い式典だ。栄えある卒業?旅立ちのとき?そんなもんどうだっていい。俺は卒業式時点でまだ進路が決まってなくて、未来は黒く塗りつぶされていた。卒業式のあとに合格発表があって、不合格で、それから第二志望の進路を選んで、まあそれも別にどうでもいいものだった。俺は俺の人生自体がどうでもいいのかもしれない。

好きだ、という気持ちは宗教だ。俺は生きているのが常にめちゃくちゃつらかったし、今でもつらいし、今は昔ほどじゃないけど、そういうめちゃくちゃつらい時期に俺をすくってくれたのはあらゆる音楽だった。音楽の中には俺よりしんどい思いをしている人たちがたくさんいて、その人らはそのしんどさをミュージックに乗せて、俺に届けてくれて、そうやって俺は、ああ生きよう、と思って、生きてきたのであった。とはいえその生きようという意思はあまりにも弱々しいのですぐにまた死にたくはなるのだけれど。

俺の。俺の好きだという気持ちが、俺の人生よりも、優先されるべきだ、と思う。俺は俺の好きなもののために生きたい。俺の人生、形骸化されたあらゆるできごと、そういうものよりも。狂信的に何かに熱中することは思考停止であり、でも、それで。いいじゃないか。俺の人生なんかそれでいい。残念ながら俺は社会不適合者であり、まっとうな人生を送れない、まっとうな人と同じになれない、まともな人間のふりをしようとして心が折れて、ほんものの狂人になるには理性が残りすぎていて、ドーパミンの量も正常、検査結果は良好、それなのにこんなにも死にたい。死にたい。死にたい。

まともな人間にはなれない。誰かの望む俺にはなれない。俺はクズでクソで社会不適合者で、そしてそのことを誰よりも悲観しているのはこの俺だ。「どうしてみんながやっていることができないんだ?」という声が頭の中で反響している。みんなじゃないから、だ。答えはシンプル。でも。いや。それは。なぜなら。俺が。単なる。ダメ人間だから。です。そう。そのとおりです。みんなが当たり前にやっていることが俺にはできない、まともな人間たちのやっていることが俺にはできない、だからさっさと死んだほうがいい、殺したほうがいい、死んだほうがいい、死んだほうがいい、死んだほうがいい、死んだほうがいい。

いつだったか俺に対して「君みたいな人間は死ぬべきだよ」とにこやかに言ってくれたやつがいた。俺はその言葉をその通りだと思ったしそれは世界の真理だと思ったしそして確実に傷ついたしそのあとで家中にある錠剤をぜんぶ胃に流し込んだけど残念ながら黒いゲロが出ただけで2日くらい床を這いずりまわってあとはもう残念ながら健康体の俺なのであった。まあそんなもんで死ねるとも思ってなかったし自傷活動の一環だ。死ぬつもりなんてなかったんだろう。いつだって死にたい気持ちはポーズみたいで実行には至らない。どうかと思う。

死ぬべきだということがわかっているのに死ねない。つまり生きたいんじゃないかと思うけど、生きるのはあまりにも困難だ。