推定54mg

それでも今日も生きている

思い出だとか愛着だとか

廃棄処分をすることには慣れている。

飲食や食品販売系のアルバイトをしたことがあるやつはたいていそうだろう。売れ残りを処分するときに重要なのは、自分から人の心を引き剥がすことだ。「もったいない」という意識を失くし、自分が処理しているものを食品だと認識しない。ベルトコンベアから流れてくる刺し身の上にたんぽぽを載せるのと同じように、ただ流れ作業をしているだけ、そのように意識をコントロールして、自分が処分しているのは食べ物であったこと、地球のどこかでは栄養失調で死んでいく人間がいること、なんかを、忘れ去る。自分は装置なのだと思い込む。売れ残りを、廃棄処分する、機械。

そうやって自分をコントロールすることは有用だ。そしてそれをやりすぎると自分というものがわからなくなる。仕事柄、仕事中はニコニコヘラヘラ笑っている。それが仕事だからだ。そして家に帰ってくると無言でパソコンに向かい真顔でキーボードを叩く。俺はそういう真顔で無言の俺が嫌いで、仕事中にニコニコヘラヘラしている自分のことはそれなりに好きでだけどそれは仕事上の賃金に依ってつくりだされた笑顔であり、俺は金が好きで、けれど、俺というのは、いったい、何なんだ?

金を出されたら靴でも舐めるか?いや、俺にもなけなしのプライドはある。でも靴の裏じゃなくて甲のあたりぐらいだったら、十万とかで、舐めるような気がする。一万円だと少ないかな。百万円もらえれば裏でも舐めるかもしれない。俺のプライドなんか随分安い。そんなプライドさっさと捨てちまったほうがいいんじゃないか。

興が乗ってしまったので部屋の掃除をした。要らない本をガンガン処分した。部屋が随分と殺風景になり、ふと見下ろすと「引っ越し直後で家具がないんですか?」みたいな状態になってしまった。この家には電子レンジがないがシュレッダーはある。ミニマリストになる気はないけれど、「いつでもスーツケース一つでどこにでも行ける」ような身軽さには憧れる。それを目指すと結局ミニマリストになるような気がするけれど。

俺はとても忘れっぽい。そして夢で見たことと現実で起きたことの区別がいまいちつかない。だから簡単に思い出を失くす。それが夢だったのか現実なのか思い出せない。死んだ曽祖父が、俺と一緒に生きていた期間があること、まるで夢だったように思って、実家の奥から出てきた写真を見て、ああ現実だったんだなと確認する。最近死んだ祖母のことだってすぐに夢か現実かわからなくなってしまうだろう。祖父も。親も。だってたまに俺は俺自身が生きているのか死んでいるのかさえわからなくなる。そういうわけで思い出とかいうものの存在感はなく、絶対的価値もない。

思い出の品はなかなか捨てられないという。けれど俺は廃棄処分をすることに慣れてしまっているので、人からもらったプレゼントも手紙もうまく捨てることができる。できてしまえる。それって人間として欠陥なんじゃないだろうか。大好きだった何もかもがいつかどうでもよくなる日が来てしまうことがおそろしい。そのことを、知ってしまってから、何かを好きになることに尻込みする。結果として人間関係を新たに構築することに怯えが出てしまうし、あらゆる本や音楽への興味が薄れてしまうし、そうやって、そうして、生きていることへの実感が持てなくなる。

何もかもを捨てて、捨てて、捨て去って、何を捨てることにも躊躇がなくて、そうやって、販売期限の切れた弁当を捨てるのと同じ気軽さで、俺の命を捨てることができるようになる日が来るのかもしれない。その日が。早く来るといいね、と思う俺と、来ないといいな、と思う俺がいて、俺は今日も分裂している。