推定54mg

それでも今日も生きている

まともになれないとかいう祈り

まともな人間になりたい、というのはあまりにも切なる祈りだ。

他人と違うことを恥じている。自分だけが異物のように感じられる。周囲から外れていることが恥ずかしくてみじめで仕方がない。他人と自分との差異を確認して恥ずかしくて死にたくなる。他人には当たり前にできることが自分にはできない。自分だけが欠陥品のように感じてしまう。他人は素晴らしい生き物で、自分だけが途轍もないポンコツであるように、思えて、しまう。

まとも、というのは、世の中の、大半によってつくられた、人工物だ。

大衆が、みんなが、ほとんどが、そうやっているから。そういう傾向にあるから。だからそれを「一般」ということにしている。ただそれだけだ。そう、ただそれだけの、ものなんだ。

とはいえ、そういうものだと頭でわかっていても感情が許さない。だから、そう、みんなが鬱病を発症していないのに自分だけが発症しているときとか、みんながきちんと企業に勤めて働いているのに自分だけ無職なときとか、みんなが褒め称えるなにかを自分だけ好きになれないときとか、そういうとき、自分だけが世界からはじき出されているような気がして、落ち着かなくて、自分だけがどこかおかしいような錯覚を、抱いてしまうんだ。

自分だけがおかしいことを認めたくない。この世界にうまく溶け込みたい。みんなと同じ生き物になりたい。と、祈る。祈るけれど、でも、それは、ああ、結局、認めたくないけれど、最初から無理な話なのだ! だって母親でさえ、自分とかつてつながっていた母親でさえ、生まれ落ちたら(いや、生まれおちる前から)別の生き物なのだ。人類補完計画は遂行されないからすべての人間にはATフィールドが存在していて俺と同じ誰かはいなくて誰かと同じ俺はいない。ここにいる俺とあっちにいる人間は全くもって別個体で、俺は誰とも溶け合えない。ひとつになれない。俺は俺でしかなくてそれは孤独かあるいは孤絶、共通理解なんてものは単なる幻想にすぎなくて、言葉を操ることを決めた段階からディスコミュニケーションは否めない。「海が見たいね」と俺が言って、「そうだね」と誰かがうなずくとき、そのとき、俺の言う海は冬の日本海の黒く寂しい海で、誰かがうなずく海は常夏のモルジブのきらきらとした綺麗な海かもしれない。モルジブに冬ってあるのか?

だけどその、自分の、「おかしい」ところを、ちゃんと受け止めて受け容れて仕方ねーなあって思えるようになれば、あとはもうこっちのもんだ。自分探しなんかするまでもない、だって自分と他人との差異が見えているんだから。ガンジス川に流れる死体を見るまでもなく自意識は「死」を意識していて、だから、そう、インドに行く必要なんてないままで、自分探しと自己分析は終了する。あとはもう肯定、徹底的な肯定、それはあるいは諦めなのかもしれなくて、つまりは、まともじゃない自分、他人と異なる自分、どうしようもない自分、社会不適合者の自分、を、受け容れて、仕方ねーなって笑える、笑う、笑いたい。笑えたら、人生はきっとハッピーだ。

やり直すことはできる?できない。人生は。俺の間違った人生は残念ながらリセットができなくて、くちゃくちゃの職歴はそのまんま、恥ずかしい履歴書をひっさげて、これが俺ですと言うしかない。そういう俺を、それでもいいって受け容れてくれる、人を、探して、まあでも、受け容れられなくてもいいんじゃねーか、俺が俺を肯定していれば。って、開き直れるくらいの強さを。