推定54mg

それでも今日も生きている

退職エントリ

23時すぎまでの残業が耐えがたかった、と俺は辞めた理由を人に言う。人は「それはブラックだよ」と言う。そうなんだろうか。俺はまだそこがブラックなのか判断ができずにいる。基本給とみなし残業45時間、それを超えたら残業代が支払われる会社を果たしてブラックと言ってしまっていいのだろうか。残業代が支払われない会社だって腐るほどあるのに。

23時まで残業をする。電車に揺られて40分、駅から徒歩15分。駅近くのモスバーガーで深夜0時すぎに飯を食べて帰る。翌日は9時に家を出る。勤務開始時間は10時。出られなければ遅刻なので俺は寝坊した日は寝坊したと気づくや否や自分の頭を力いっぱい殴る。罰を与えるためだった。8時間睡眠を望むのは愚かなことなので。もっとがんばっている人はたくさんいるので。会社の誰よりもがんばらないといけないので。
3月のフィードバック面談で、副社長直々に「もっとがんばるように」と言われた。4月の目標面談でも、上司に「もっとがんばるように」と言われた。俺は全然がんばっていないので、他の人と比べてがんばっていないので、俺は俺なりにがんばっているつもりだったがそれでは全然足りないので、がんばらないといけないのだった。

23時57分まで残業をする。ダッシュで駅のホームまで急ぐ。0時発の電車に乗る。どうにか帰る。深夜1時にコンビニで飯を買って帰る。

体重が10kg増える。

嘘だろみたいな気持ちになって笑ってしまう。肉体は鮮やかなほどに素直だ。俺は自分の肉体を管理できないことが情けなくて頭を殴る。俺は全然だめな人間だ。仕事ができても遅刻をしたら意味はない。他の人は俺よりも遅くまでがんばって、それなのに翌朝きちんと定時で出社する。俺にはきっと残業の才能がないのだと思った。俺は部長に言う。
「残業すると翌朝定時で来るのが難しいので、早出して、定時で上がろうと思うのですが」
部長は言う。
「そしたら残業している人に迷惑が掛かるよね?」
俺は早出をしてなおかつ残業をするようになる。
人に迷惑を掛けないように。
誰にも迷惑を掛けないように。
与えられた仕事は納期までにきちんとこなす。
急ぎの仕事には即座に応える。
管理部の人が俺を褒める。
「あなた、ディレクターからの評判がいいわよ」
そりゃそうだ、と俺は思う。
言えばすぐに応えてくれる俺は呼び出したらいつでも使えるセフレみたいなもんだろう。都合のいい人間だから好かれているだけの話だ。事実、俺はしょっちゅう遅刻するのでなんの意味もない。俺に上司が言う。
「このまま遅刻すると懲戒処分になる」
遅刻する俺を受け容れてくれる会社なんて他にあるわけがない。俺にとって今の会社が蜘蛛の糸で、よすがだった。俺はここに縋り続けなければならない。俺はエンジニア未経験で採用されていた。入社してしばらく俺がしていたことといえば、お茶くみと電話対応だった。エンジニアとしてのスキルなんて欠片もない。だから転職なんてできるわけがない。俺はここに居続けるしかない。0時まで働く。終電を逃す。定期とは異なる路線を乗り継いでどうにか帰宅する。深夜1時。ベッドにそのまま倒れて眠る。朝起きてシャワーを浴びる。甘えたい気持ちが出てくるので頭を殴ってどうにか抑える。駅までの道を歩きながら、会社を休みたい気持ちになって、その考えを捨てるために頭を殴る。会社に着けば毎日20〜30個ほどのタスクが俺を待ち望んでいる。俺は俺専用のチャットルームを作って、毎時間そこに「死にたい」「死にてえ」「死ぬなら今!NOW ON SALE!」などと書き込みながら仕事をする。早出をして、残業をすれば、誰にも迷惑はかからない。単純なことじゃないか。俺が早出と残業と休日出勤をすると上司は嬉しそうな顔をするので、俺はがんばって頭を殴りながら会社へ行く。

頭の中で声がする。
「死んだほうがいいよ」と声が囁く。
日課のソシャゲへのログインすら忘れる。
仕事がすべてになっていく。
休んだ1日を取り返すために3連休に休日出勤をする。
時間の感覚がおかしくなっていく。
俺はがんばっているのだろうか?
まだまだだ。
何もわからなくなっていく。
早く仕事をしなくては、と思う。
長時間労働で集中力が切れていく。
普段ならしないつまらないミスが増える。
定時を過ぎてから、顧客情報を操作するような複雑な仕事が襲ってくる。
ミスをする。
上司がそのカバーをする。
上司に、定時過ぎにはそういう仕事を振らないでくれと陳情する。
上司が言う。
「君のミスを俺のせいにするんだ?」
そういうことじゃない。
でも、そういうことだ。
俺が悪い。
俺がミスをしたのが悪い。
俺は俺が嫌いだ。ミスをする俺が嫌いだ。集中できない俺が嫌いだ。俺は仕事ができる。いや、できない。できる。できない。わからない。俺はもっともっとがんばらないといけない。会社で手首を切る。ペーパータオルとガムテープで傷口を抑える。手首を切ると安心できた。頭の中の声がする。「やっちゃったね」うるさい声がする。
声をやませるために頭を殴る。トイレで俺は頭を打ちつける。誰もいないトイレならなんでもできる。頭を殴ることも、壁に打ちつけることも、手首を切ることも。それが束の間の安息になる。

仕事をする。
上司からメールが来る。
「君が俺のことを嫌いなのはわかっているけれど」
そんなことはない。
俺は。
そんなんじゃないんだ。
俺が嫌いなのは俺だけなんだ。
他の誰のことも俺は嫌いじゃない。
伝わらない。
何ひとつ。
意味がない。
上司が喜ぶからしている早出も、残業も、休日出勤も、何もかも。
涙が出てくる。
仕事が終わらない。
仕事がたくさんある。
日々襲い来るタスク、それをこなす、時には新人に割り振る、新人への指導をする。俺が開発しないといけない案件がある、俺が、俺が、俺が、俺が、

呼吸ができなくなる。
息の仕方を忘れる。
手首を切りたい気持ちを抑えながら、作成したファイルをアップロードしようとするのに、指が動かない。
がん、と音がして、キーボードに俺は頭を打っていた。
呼吸ができない。震える。
過呼吸だ。
周囲の人が寄ってくる。
俺は前にも過呼吸を起こしたことがあるので問題はない。
俺は俺に詳しいんだ。
呼吸ができなくて、
このまま死ねれば、
幸せなのに。

死ねないまま俺はタクシーで家に帰る。心配してくれる隣のチームの人が優しくて涙が出た。俺は最低の人間なのにな、と思うし、俺の頭はさっきたぶん壊れてしまったし、壊れる前に心配してほしかったな、とも思う。でもその人だって俺よりずっと忙しいんだからそんな甘えは許されない。俺よりも、俺の上司や、部長や、他チームの人のほうが、ずっとずっと忙しい。だから俺はその人たちに何かをしてもらうことは許されない。効率化を求めてはいけない。共有不足を指摘してはいけない。指示ミスを指摘してはいけない。

死のう、と思う。

途端に何もかもが可笑しくなって、俺は家で大声で笑いながらゴミ箱を蹴飛ばした。俺は全然何も変わっていない!頭がどうかしている!頭の中の声がやまない!手首を切りたい!頭がおかしい!ただそれだけ。すがる気持ちで近くの心療内科へ電話をする。電話がつながらない。もう一個の心療内科へ電話をする。「次に予約が取れるのは二週間後です」。そうですかと電話を切る。二週間。二週間!そのときの俺にとっては永遠にも思える時間だった。五秒先を生きているだけで、褒め称えてほしいレベルだった。

結局、電車で十五分ほどの距離にある心療内科の予約をどうにか取って、薬を処方してもらって、会社を辞めた。これ以上いても会社に迷惑を掛けるだけだと判断してのことだった。どうでもいい、とも思った。俺が生きていようとも、死んでいようとも。
死にたいのに死ねないのがとてつもなく苦しかった。薬を飲むと死にたい気持ちが薄まってだいぶラクになった。頭を殴りたい気持ちもなくなった。もっと早く来ればよかったのに、そうすれば仕事を辞めずに済んだのに、と頭の中で声がする。そうだな、俺もそう思うよ。なんでそうできなかったんだろうな。だいじょうぶだと思っていたんだよ。頭を殴りながらしか、生きていくことができなかったのに。

離職票が届きハローワークに行く。うつの診断があれば失業給付がすぐにもらえると聞いたんですけど、と言うと、初診日を訊かれ、答えると、
「その日じゃ無理ですね」
と言われる。
在職中に通いはじめてないとダメなんだそうだ。なるほどね。世界はよくできている。
頭をダメにするまでがんばったのに、俺は普通に普通の自己都合退職者だった。世界から嫌われているような気がして仕方ない。頭の中で声がする。「やっぱり死ぬチャンスじゃない?」そうだね。そうだな。薬を飲む。泣きながら薬を飲む。オーバードーズしたい気持ちを抑えながら、規定量だけで我慢する。ODをすると、次回以降きちんと処方されないことがあるからだ。俺はちゃんと規定量を守る。死にたい。死んだほうがいい。死にたい。死にたい。……死にたい。

死ねないまんまで生きている。俺は今日も変わらず俺だった。かなしいことに。
早く俺が俺じゃなくなる方法を教えてください。それがかなわないなら、誰か、俺を殺して。

コール

なーんで生きてんの?なーんで生きてんの??死にきれないから生きてんの!ただそれだけ。

死にたい気持ちはいつでもあってそれがないことのほうがむしろ珍しい、死にたいっていう気持ちが湧いてこない日は俺の頭がどうかしちゃったんじゃないのかなって不安になって俺が死ぬべき理由を探す、俺は社会のゴミだし会社にいてもなんの意味もないし意義もないから早く俺が死んだほうがいいってことは全人類周知の事実なんですよねって思って全人類に認知されるほど大それた人間じゃないから早く死んだほうがいいよって思う。俺は俺のともだちのこと、俺に騙されちゃってるかわいそうな人間だなっておもう。俺はゴミオブゴミのクソクソのどうしようもない人間なのにそれに気づかないで俺なんかのともだちをやっちゃってる人間のことかわいそうだとおもうのに俺はともだちを手放せなくてともだちに「俺はクソな人間なんです」って言うことができない、あるいはもう気づいててボランティアで付き合ってくれているのかもしれない、それならいい、そのほうがいい、それならいっそ救われる。善行を積めば天国に行けるという。俺なんかのともだちをやってくださってるともだちさんは絶対に天国に行けるでしょう。そうじゃなきゃおかしい。

人間は所詮ひとりみたいなことを言いながらともだちを欲する俺は愚か。一人で生きていたいのに社会に属する俺は馬鹿。楽しいことも嬉しいことも全部何もかも甘えにすぎないのにそれを摂取したがるのは許されざる罪で俺にはもっと罰が必要。出勤するたびに手首を切るぐらいの気概が必要。もっともっとすごい罰が必要。俺は早く死んだほうがいいのに死ねないからダメ。なんで生きてんの?死にきれないから生きてんの。

俺は生きてていいのかな?生きることには許可が必要?俺に死ねっていう人と生きろって言う人の差異は何?俺は生きてて許される?俺を誰が必要としてんの?俺なんかいなくてもいいし生きるのはコストがかかるし生きるために働いてて死にたいのに働いてて無人島に行ったほうが楽なんじゃねーのって思うしわかってるけど無人島で生きてくすべを知らない。満員電車で心を殺すすべは知ってるくせに。祖母が死んでて俺が生きてる世界はまちがってる、俺はどうせ誰にも愛されないので愛されている祖母が生きるべきだった、俺を愛している人はかわいそうにバグを抱えている。その重大なバグを取り除いてあげましょう。

会社では毎朝社訓を叫ぶ必要もない。交通費が支払われる。給料も支払われる。驚くべきことに!週に5日の出勤です、というのがおおむね守られているし、土曜日に出勤したら平日のどこかで休める。すごい。すごいぞ!一日中怒鳴っている上司もいない。理不尽に喚き散らす客もいない。「死ね」といきなり言われることもない。すごい。すごいのでここで俺は甘やかされている。もっとつらくて痛くて苦しいものが必要だ。出社するたびに手首を切らないといけないような状況が必要。俺にはそういうのが似合ってんだよね。わかってるよ。ホワイト企業は俺には似合わない。

おっさんのちんぽしゃぶりながらオナホにされるのがお似合いなの。わかる?そういうこと。俺は俺にもっと似合いの地獄があるとおもう。天国なんて許されない。俺は早く俺がもっとひどい目に遭うことを望んでる。だって神様がそう言うんだ。

頭の中で声がすること

記憶が久々になくなった。酒のせいでもなんでもなく、きっかけすらもう思い出せない。ただその瞬間に何もかもを捨てなくてはいけないような気になって、たぶんほとんど発狂しながら、ちょうど可燃ゴミの日だったので、様々な物を捨てた。捨ててしまった。過去の日記帳と未使用のノート類は残さず捨てた。きっとすぐ死ぬのだから死後に親の目に入るであろう物の中に日記帳なんて絶対に遺しておきたくないと思って捨てた、ノート類もこれからすぐ死ぬ予定だから要らないと判断して捨てた、きちんと見ないで捨てたのでその中に銀行の通帳も入っていたようで、見つからないので、再発行の手続きをしなくてはならない。残高や履歴自体はウェブから確認できるので別に困っていないのだが、たぶん銀行の通帳って無いとダメだよな。たぶん。
頭の中で声がすること、特別なことだとは思っていなかったのだけれど、どうやら違うらしい。
声が俺に向かって「死ぬしかない」「やっぱり死んでおくべきだった」などと言うので苦しくてつらくて仕方なくなって左腕を切った、カッターナイフで傷をつけた、実に久々のことだった。赤い血を見てからやっと落ち着いた、俺はなんも変わってないんだと思って安堵と絶望が一緒に襲ってきて笑いたくなった、笑ったかもしれない、記憶が曖昧でいまいち思い出せない。俺はビビリなので腕を切ったと言っても包帯を巻くほどの深さには切れず、なので、適当にティッシュで血を拭って傷は放置した。冬でよかった。長袖を着ていれば誰からも俺は正常に見えるだろう。
正常。
正常って何なんだろう、まともって何なんだろう。過去の俺が書いている。「まともになりたい」っていうのはマジでめちゃくちゃ切実な祈りなのだ。俺はまともに俺という個体を運営していきたい。まともになりたいという祈りは形状を少し変えて、俺は俺をなるべく穏やかに運用していきたい、と思っている。今は。
腕を切ったので頭の中でくすくす笑う声がする。「あーあ、やっちゃったね」おまえがやれって言ったんだろう。「言ってないよ」。声がする。
手首を一度切ると癖がついてしまって「手首が切りたい」「手首を切らなくては」という欲望や義務感が出てきてしまう。手首を切ること自体はどうでもいいのだが、もしも職場で手首を切りたいと思ってしまったら、そしてそのまま自分の席で手首を切り出したりなんかしたら、そう俺はなんと今は正社員で働いている、過去の俺が焦がれた正社員としてウェブエンジニア?みたいなやつとして働いている、まあそれはどうでもいい、そう、困るのは職場で手首を切ってしまったら絶対にいけない、ということだ。そんなことをしたら隣の席の人は驚くだろう、上司は血相を変えるだろう、そして俺の上司は優しいので俺を空いている会議室なんかに連れ出してくれて落ち着かせてくれるだろう。わかっているんだ。
なぜなら俺は今の職場で既に一度発症したからだ。
そのときの症状が、ぼうっとしてしまって何も手につかない、というものだったので、上司には俺が発症していることはわからなかったようなのだが、「ちょっと会議室に」と連れ出して、「具合が悪いなら帰っていい、無理はしなくていい」と言われ、そのとき上司は少し怒っていて(職場で仕事をしていなかったのだから当然だ)、それから俺は「じゃあすみません、今すぐ帰っていいですか」と言った。それから自分が発狂していることを説明した。病院に行っているのかと訊かれ、否と答え、行ったほうがいいと言われ、言われたので、心療内科へ行った。
いわゆる心の病気とやらを診てくれる医院の門を叩いたことはこれまでに2回ある。俺は自傷をやめたかった。それを相談しに精神科の医院に行ったところ、「うちではそういうのは扱っていない」と言われた。俺はそこの医院には適合しないのだと思って泣いて帰ってから腕を切った。数年後、別の心療内科の医院に行った。そのとき俺はテーブルから缶が落ちるだけで不安と恐怖で泣いてしまっていて、接客業で制服が七分丈だったので腕は切れず代わりに木槌で太腿を殴っていた、それをやめたかったので医院へ行ったのだが、何かの数値の検査をされ、「君は正常だよ」と言われた。俺が正常なら俺がなんでこんなに苦しいのか説明をしてほしかった。俺はわかりましたと言って帰るしかなかった。
俺は正常なんだ、と、その2回目に行った医院で言われたので、俺は俺がまともなのにまともじゃないんだと思っていた。俺は俺を正常と判断していた。でも手首を切りたかったし死にたかった。俺は。俺は。俺は。どうして。
2度、診てもらえなかった経験があるので病院へ行っても無駄だと思っていた。なので、ゆうメンタルクリニックを選んだ。ウェブでマンガを読んでいて、ここならきっと俺でも診てもらえるだろうと思った。俺は正常で、でも診てもらえるだろうと。そしてそこでバウムテストと医者との話、カウンセリングを受けた。医者とカウンセラーは別の人だった。カウンセリングは30分で3000円ほどかかり、話をしても特に益体はないなと思ったので、初回以降は受けていない。頭の中の声との対話のほうがいい、とそのときは判断したのだ。頭の中で声がすることを、そのときは別に言わなかった。そのときに医者に話した内容と症状については「電車の中でつらいことがあり、以後、電車に乗ろうとすると足が震える、電車に乗ると不安で涙が出てくる、1時間半ほど電車に乗らなくては職場に着かないので電車に乗れなくては困る。また、寝る際に目を閉じるとつらい記憶が浮かんできてしまい苦しくて眠れない」というものだったので、適応障害という診断書を書いてもらい、3ヶ月の休職期間を経た。処方薬のおかげで眠れるようになり不安は薄れ、金は無かったが親に頼み込み金を借りて引越しをして、3ヶ月後、どうにか職場復帰できた。職場が港区にあるので電車を乗らずに通勤するのは今の給料では無理だった。しかし電車に乗る時間は30分ほどで住むような場所まで引っ越せた(乗り換えを含むので通勤時間自体は45分ほどある。それでも前の半分だ!)。そう、それが、ちょうど1年前の話だ。2016年の12月に俺は鮨詰めの満員電車の中で一人のサラリーマンが俺に対し「なんだよ」と吐き捨てるように言い、俺はそれに向かって「俺の何が不満なんだ」と問いかけてしまい、そうそれは失態だった、俺は相手に何も反論できなかった、相手はずっと「おまえがおかしい、おまえがおかしい、おまえがおかしい、おまえが悪いに決まっている、おまえはおまえが悪いのにおまえが悪いことにさえ気づかない、おまえの親はおまえの育て方を間違えた、おまえの親もバカだ」ということを言い続けた。俺はそのとき13時間勤務を終えたあとだったので完全に疲れ切っていて判断ミスをしていた。俺はそいつに向かって何も訊ねてはいけなかった。そいつの言葉に逆上して俺はそいつを殴った。そいつは嬉しそうに笑って「殴ったな!?殴ったな!見ましたかみなさん、こいつは俺を殴りましたよ!これは傷害罪です、暴力です!さあ警察に行くぞ!」と言った。最高に楽しそうだった。俺はそのときカッターナイフを持ち歩いていなかったのを、自分のミスだと思った。手首を切りたくてしょうがなかった。相手の言うなにもかもは正しかったように思えた。相手が俺に向かって「死ね」と言わないことだけが意外だった。それ以外は何もかもすべて、いつも頭の中で聞こえてくる声と、内容が合致していたからだ。ミスをした。俺は完全なミスをした。俺は犯罪者になったのだ。相手の言葉に俺の心はざくざくと傷つけられたがそれは目に見えない、目に見えない暴力は誰にも証明できないけれど俺の振るった暴力は皆々様の目に留まった、俺は上機嫌なそいつと共に電車を降りて警察に行かなくてはならなかった、俺は暴力を振るってしまったことをミスだと思った、自分の手首を切るべきだと思った、でもそのときカッターナイフを持っていなかったのでそれもミスだった、この電車に乗ったことも13時間勤務をしたことも何もかもがミスだと思った、今の会社に入ったことはミスではない、会社に対する不満は(残業が常態化しているという欠点はあるが)特になかった、俺は犯罪者になったのだと思うと哀しくて涙が出た、俺の親は犯罪者の親になってしまってそれはとてもかわいそうなことに思えた、高校のときに同級生が殺人を犯したことを思い出した、学校に報道陣が押し寄せてきたことを思い出した、俺は傷害罪の重さを知らなくて、そのとき、俺はもうきっと今の会社では働けないんだろうと思った、それだけは阻止しなくてはならなかった、実際のところはどうなんだろう、わからない、わからない、わからない、でもとにかく俺は今の会社に縋るしかなかったしそれが俺の唯一の蜘蛛の糸だと思っていたのでどうにか警察に行くのを避けなくてはならなかった、俺はそいつの隣を歩きながら(俺の暴力はそいつに全く効いていなくてそれも哀しかった)、一つの名案を思いついたのでそれを実行した。階段を降りていた、そいつの隣を歩きながら、なので、そいつの身体に触れてから、自分で階段から飛び降りた。痛かった。頭を打った、俺は叫んだ「階段を突き落とされた!さっき俺がそいつを殴ったから、仕返しに階段から突き落とされた!」と。そいつは「やってねえよ!」と声を上げたが俺は叫んだ、叫び続けた、周囲が俺たちを遠巻きに見ていた、俺は叫ぶ、叫ぶ、叫び続けた、その先にあるものが何なのかなんてわからなかったけれどとにかく警察に行くのを阻止しなくてはならなかった、逃げられるような瞬足は俺にはなかった、むしろ俺は足が遅いほうなので逃げてもすぐに捕まる自信があった、なので俺は叫ぶしかなかった、そのとき俺の中で時間は止まっていた、その間に次の手を考えなければならなかったのに何も思いつかなかったのでまた哀しくて涙が出た、頭の中がぐるぐるしていて目からは涙がどばどば溢れてきて俺は死にたくて仕方なかった、過去に死にたいと思った瞬間の記憶すべてが押し寄せてきて俺を責め立てた、やっぱりあのとき死ぬべきだった、俺はこの電車に乗ってはいけなかった、俺は暴力を振るうのではなく手首を切るべきだった、俺は、俺は、俺はそもそも生まれてくるべきじゃなかった、そう、さっきそいつの言ったとおり俺の親は、ちがうんだ、俺の親は間違ってない、俺の親は何も間違ってなくてただただ俺が俺だけが悪い、俺は俺の母親のことを考えた、女手一つで俺を育ててくれた親だった、俺の親が犯罪者の親になってしまうことだけがとてもかわいそうで仕方なかった、俺は飛び降りて死んでしまいたかった中学の時のことを思い出していた、一番死にたかった時期だった、でもそのとき、俺は俺の親を自殺者の親にしたくなかったので飛び降りなかった、俺は正直今でも自分の親のことをどう扱っていいのかわからない、好きとか嫌いとかは特になくて俺の親は俺の親であってそれはかわいそうだと思う、俺じゃないもっと出来の良い生き物を産めていればよかったのになと思う、過去俺は何度も母親を怒らせた、それは俺が正しくない行いをするから怒るのだった、暴力は振るわれなかった。俺が正しくない行いをしたとき、俺の親は俺の存在を無視した。俺はテレビを見る母親に向かって何度も何度も謝った。ごめんなさい。ごめんなさいおかあさん。ごめんさい。ごめんなさい。ごめんなさい。一度だけ俺の親は暴力を振るった。それの向き先は俺ではなく俺の部屋の扉だった。だから実家に帰ると今でもその穴の空いた扉がある。花柄のテープで穴が隠されているのだがそれは笑っちゃうくらい全然何も隠せていない。
俺の中の時間が止まっているのに目まぐるしく動いていてつまりは俺が混乱している間にも俺以外の世界は一律に時を刻んでいてすぐに誰かが読んでくれて駅員と警察が三人だか五人だかぐらいやってきた、そのことに俺は驚いた、そういう存在が来ることを知らなかったのでびっくりして頭が一瞬白くなる、駅員は何があったのかは俺には訊かず周囲に状況を確認し、俺と相手とを見比べて相手が「そいつが殴ってきたんだ」と言う、俺は「階段から突き飛ばされた」と嘘を主張、相手は、俺が殴った相手は、あんなにも警察に行くことを喜んでいたのに、駅員と警察がやってきてからは帰りたそうにしていて、それがなんだか意外だった、駅員はそいつに向かって「帰っていい」と言った、電車が来てそいつは去っていった、俺は笑っていた、おかしくて笑った、笑うしかなかった、泣きながら笑っていた。警察に行かなくてはならなかった。俺は俺が暴力を振るったので犯罪者だ、犯罪者になってしまった、犯罪者にはなりたくなかった。鞄のファスナーが開いていたので鞄の中身がそこらじゅうに散らばっていた、それらを拾うよう駅員が指示した、駅員は優しかった、「お酒飲んでる?」と訊かれ、金曜23時すぎの電車なのでそういう客もいるのだろうなと思った、俺は13時間働いてがんばってがんばってがんばって仕事をして1滴も酒を飲まずに電車に乗ったのにそんな質問をされたことが哀しかった、泣きながら首を横に振った、何も報われないと思った、13時間じゃ足りないと思った、俺はもっともっともっと働かなければならないと思った、36時間くらい働いたなら誰か俺を労ってくれただろうか。俺をかわいそうがってくれただろうか。でも悪いのは俺だった。俺がミスをした。俺がそいつを殴った。それだけの話。
落ち着かない俺を警察が警察署に連れてってくれた、調書も何も書く様子が無かったので俺は震えながら俺が犯罪者だから早く裁いてほしいと言った、裁かれるとどうなるんだろう会社にいられなくなるんですかね、と言った、警察は穏やかな声で、傷害罪は相手からの申告が無ければ発生しないことと、そしてその相手はもう帰っているので、俺が犯罪者にはならないことを説明してくれた。警察署のパイプ椅子で俺は安堵した。でも俺は俺を裁いてくれる存在が必要だと思った。申告がないので罪がないにしろ、俺は見ず知らずの相手に暴力を振るった。俺はそのこともショックだった。人を殴っても相手が吹っ飛んだりしなかったこと、非力な俺の力では大人一人傷つけられないこと、そういうこと。「電車に乗れる?」と警察が訊いてくれて俺は首を横に振った、俺がいる警察署の最寄り駅の場所に住んでいる友人がいたのでそいつに連絡した、その友人は実家住みで車を所有しているのを俺は知っていたので、車で俺の家まで送ってほしい旨を伝えた。友人は承諾してくれた。友人に発狂している姿を見られるのは恥ずかしかったが背に腹は変えられない、それを見られて幻滅されたらそれはそれで仕方ないと思った、どちらにせよ悪いのは俺だし仕方ない、とにかくそのときは家に帰らなくてはならなかった。友人は俺が警察にいるのをまず心配してくれて、警察が状況を説明、俺は泣きながら友人に向かって何度も謝った、夜遅くにごめんな、ここから俺の家まで車で40分くらいかかるのにごめんな、こんな姿を見せてごめんなと謝った。そいつは自動販売機であったかい何かを買って俺に渡してくれた。「いいよ」と言った。すごくいいやつだと思った。
車の中は快適で、鮨詰めの満員電車と較べると天国のように思えた。俺はそのとき友人と話をしたのかわからない。したのかもしれないししていないのかもしれなかった。結論から言うと、俺とその友人は、今でも友人関係にある。見知らぬ人間に暴力を振るった挙句に自作自演の飛び降り劇を演じて発狂して泣きじゃくる俺の惨めな姿を見ても、そいつは、俺と変わらず友人でいてくれた。
それで、そう、なんだっけな、そうだ、俺の頭の中の声の話。上で書いた通りの経緯で俺は3ヶ月間の休職、その間に心療内科を受診し、引越しを行い、しばらくは心療内科に通っていたのだが、8月くらいか、その友人と遊ぶ予定を立てるときに「その日は病院に行く予定がある」と言ったことがあり、隔週土曜日に心療内科へ通っていることを説明、それに対し友人が「まだ行ってるんだ」と言った。俺はそのときとても調子がよかった。人生で一番快適だった。何せ、「死にたい」と思うことがなかったのだ!「死にたい」という気持ちはほとんど癖みたいになっていて、接客業をしているときなんかは楽しくもないのに笑っている自分を俯瞰して自分がばらばらになるような気がして休憩中にふと「あ、コーヒー飲みたい」と思うような気軽さで「あ、死にたい」と思うようになっていた。それが、その気持ちが、全然まったくこれっぽっちも浮かんでいない時期だった。薬は偉大だと思った。俺は心療内科に通って、隔週、そう、もう落ち着いていたので(引越しをして沿線を変えただけで随分気が楽になった)、いつも「調子はどうですか」「落ち着いています」「そうですか、いつもの薬を出しておきますね」のやり取りだけだったので、もう行かなくてもいいかもしれない、と思った、のだ。
まあ結果から言えばそれは間違い、8月、そう、それが8月のことか。もっと前だと思っていた、9月10月11月、俺は通院なしでも電車に乗れていい感じで仕事もできていた、12月、冬季鬱とかあるじゃん、気分が落ち込むことが増えてくる、2018年1月、朝起きて何もする気が起きなくなる。起きた瞬間に自分の中身が空っぽになっていて、気力が何もみなぎってこない。目が醒めて身体を起こす、その先にやるべきことはわかっているのにやる気が起きない、やる気などなくても身体を動かせば案外なんとかなることもあるが(健康な時とかそうだ、「仕事行くのだるいな」と思いつつも起き上がって顔を洗えば「よし、行くか」となったりする)、そのときはほんとうに身体を動かすことさえ億劫だった。会社に連絡を入れ休む、休む、休む。休みが続く。友人と会う予定を当日キャンセルすることが2回。2回目のときに、友人が電話先で俺に何かを言った。それを、今もう、覚えていない。そのときの衝動だけを覚えている。何もかもを捨てなくてはならないと思った。俺は俺の何もかもを捨てなくてはならない。こんな俺を、俺自身を捨ててしまわなくてはならないと思った。衝動だけがあったので物を捨てた、とにかく捨てた、死にたいという気持ちがあった、死にたいという気持ちがあった、死ななければならないという義務感があった、頭の中で声がした、「切りなよ」「切りなよ」「半袖を着なくてもいいし」「ねえ死なないの?」「死んじゃいなよ」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」大合唱だった、その声を止めるために腕を切った、赤い血があった、頭の中の声が「あーあ」と笑う、「やっちゃったね」「やっちゃったね」やっちゃったね。
それが確か、日曜日の話。月曜日、会社を休む。火曜日、どうにか心療内科へ行き、冒頭に戻る。
心療内科で、以前受信していた時の症状はもう落ち着いていることと、それとは全くの別件で自傷をしてしまったこと、元々自傷癖があることを説明し、それを会社で行いたくないので、薬を処方してくれるよう頼んだ。心療内科で話をする、医者の先生が優しく聞いてくれる、後ろでアシスタントみたいな人が猛スピードでパソコンのキーボードを打つ(俺の話の内容とかを記録しといてくれてるんだろう)、今回の自傷のきっかけを訊かれ、それはもはやぼんやりとしか思い出せず「なんだったか……内容は覚えてないんですけど……友人に何かを言われて……」そこまで先生はうんうんと聞いていた、「そして、頭の中で声がして、」と説明した瞬間、ぴくりと先生の反応が変わった。「それはどんな声?頭の外側?内側?」「えっ……内側です」「そう。それはよくないわね」先生が言うので俺は驚いた。頭の内側の声って、みんなにあるものじゃなかったのか。
薬を処方してもらったので適切に眠れる。薬を処方され、きちんと飲んでいる。でもメンタルがゴミみたいになっているのがわかる。改善されていない、という意味じゃなくて、なんていうかもう、1回ダメになると、癖になるんだろうな、たぶん。薬を飲んでいるからどうにか今のところまたきちんと会社に通うことができているけれど、これ、心療内科に行っていなかったら、今も会社に行けていない。そして会社に行けないということは金を得られないということであり、金を得られないことには家賃も払えないし光熱費も払えないしインターネットだってできない。何をするにもまず働かなければならない、それは別に、そのこと自体はそこまで嫌じゃない。ベーシックインカムの導入を心待ちにしているけれど働いて外に出るのは楽しい、基本的には。今のところ。正常な状態であれば。
それで、なんだっけな、なんでそもそも記事を書き始めたんだっけ、ああそうだ、久々に昔の俺の鬱ブログを読み返そうと思って読み返して、その中で

人格が幾つもある、というほどの、ものではないけど、たとえば「夕食はカレーにしよう」と決めたとき、別の声が「本当にカレーでいいのか?」「他にもっといい夕食があるんじゃないのか?」「カレーは糖質が高いぞ」とか言ってくると何もできなくなる。そういうときに「うるせえ俺はカレーが食いてえんだ!誰がなんと言おうとカレーを作って食う!」と反論できると最高だね。

と書いているところがあったので、なあ過去の俺、どうやら頭の中で幾つも声がするのは普通じゃないっぽいぜ、と思って、そもそも反論する必要なんかないみたいだ、って、可笑しくなって記事を書き始めたのだった。
ちょっと書きたいことが幾つかあるので何回かまた記事を書いて、書きたいことがなくなったらこのブログの更新はぱたっと止まると思う。この説明、誰にしているんだろうな。ありがたいことに俺のブログを登録してくれた3人に向かってだろうか?その3人、まだ生きてんのかな。その人たちも俺みたいに生きづらいのに生きてる人たちだろ。もしくは俺を見て嘲笑うか、どっちかだ。このブログはどうせ誰にも読まれはしない。益体はない、それでいい。俺はぼろぼろ泣きながらこれを書いた、この後にこれを読み返すときの俺はまるで他人が書いた文章を読むかのようにそれを読む、俺は、俺を、日ごとにまるで他人のように感じる。今日の俺と昨日の俺と一昨日の俺、一人の人間として見ると気分の浮き沈みが激しすぎて、まるで別々の人間みたいだ、と。

まともになれないとかいう祈り

まともな人間になりたい、というのはあまりにも切なる祈りだ。

他人と違うことを恥じている。自分だけが異物のように感じられる。周囲から外れていることが恥ずかしくてみじめで仕方がない。他人と自分との差異を確認して恥ずかしくて死にたくなる。他人には当たり前にできることが自分にはできない。自分だけが欠陥品のように感じてしまう。他人は素晴らしい生き物で、自分だけが途轍もないポンコツであるように、思えて、しまう。

まとも、というのは、世の中の、大半によってつくられた、人工物だ。

大衆が、みんなが、ほとんどが、そうやっているから。そういう傾向にあるから。だからそれを「一般」ということにしている。ただそれだけだ。そう、ただそれだけの、ものなんだ。

とはいえ、そういうものだと頭でわかっていても感情が許さない。だから、そう、みんなが鬱病を発症していないのに自分だけが発症しているときとか、みんながきちんと企業に勤めて働いているのに自分だけ無職なときとか、みんなが褒め称えるなにかを自分だけ好きになれないときとか、そういうとき、自分だけが世界からはじき出されているような気がして、落ち着かなくて、自分だけがどこかおかしいような錯覚を、抱いてしまうんだ。

自分だけがおかしいことを認めたくない。この世界にうまく溶け込みたい。みんなと同じ生き物になりたい。と、祈る。祈るけれど、でも、それは、ああ、結局、認めたくないけれど、最初から無理な話なのだ! だって母親でさえ、自分とかつてつながっていた母親でさえ、生まれ落ちたら(いや、生まれおちる前から)別の生き物なのだ。人類補完計画は遂行されないからすべての人間にはATフィールドが存在していて俺と同じ誰かはいなくて誰かと同じ俺はいない。ここにいる俺とあっちにいる人間は全くもって別個体で、俺は誰とも溶け合えない。ひとつになれない。俺は俺でしかなくてそれは孤独かあるいは孤絶、共通理解なんてものは単なる幻想にすぎなくて、言葉を操ることを決めた段階からディスコミュニケーションは否めない。「海が見たいね」と俺が言って、「そうだね」と誰かがうなずくとき、そのとき、俺の言う海は冬の日本海の黒く寂しい海で、誰かがうなずく海は常夏のモルジブのきらきらとした綺麗な海かもしれない。モルジブに冬ってあるのか?

だけどその、自分の、「おかしい」ところを、ちゃんと受け止めて受け容れて仕方ねーなあって思えるようになれば、あとはもうこっちのもんだ。自分探しなんかするまでもない、だって自分と他人との差異が見えているんだから。ガンジス川に流れる死体を見るまでもなく自意識は「死」を意識していて、だから、そう、インドに行く必要なんてないままで、自分探しと自己分析は終了する。あとはもう肯定、徹底的な肯定、それはあるいは諦めなのかもしれなくて、つまりは、まともじゃない自分、他人と異なる自分、どうしようもない自分、社会不適合者の自分、を、受け容れて、仕方ねーなって笑える、笑う、笑いたい。笑えたら、人生はきっとハッピーだ。

やり直すことはできる?できない。人生は。俺の間違った人生は残念ながらリセットができなくて、くちゃくちゃの職歴はそのまんま、恥ずかしい履歴書をひっさげて、これが俺ですと言うしかない。そういう俺を、それでもいいって受け容れてくれる、人を、探して、まあでも、受け容れられなくてもいいんじゃねーか、俺が俺を肯定していれば。って、開き直れるくらいの強さを。

生きることは死に続けることに似ている

日記をつけている。

このブログを書くのは久々のことになるが紙の日記帳にはほぼ毎日きちんと書いている。愛用文具はモレスキンとLAMY AL-Star(EF)、そう書けばまるで上流生活者のような気配を感じさせることができるような気がしている。気のせいだ。イッツ思い込み。

 

日々はあっちゅう間に消えていって消え去っていって、たとえば8月下旬の俺は風俗店で働いてきた。そこでは気軽に春がひさがれていた。そこには倫理とかそういうものがないような気がして少し居心地がよかった。旦那も子供もいて身体を売る主婦とか、単に趣味みたいな感じで来ている女の子とか、そういう、女の子を売り払って金銭を得ている男たちとか、誰も彼も罪悪感なんて抱いていないみたいだった。それが。心地よかった。世間一般の常識とか良識が関与していない感じがした。女の子に給料を渡すときは手渡しで、雇用契約書なんかなくて、だからそう、風俗一本で稼いでいる女の子はたぶん世間的には無職なんだろうなって思った。全部の店がそうなのかはわからないけど。

 

9月からはパソコンスクールみたいなところに通い始めた。プログラミングを少し勉強している。そして働いてはいなくて、今もなお絶賛無職中だ。

驚くべきことに、働くことをやめてから、人格がきちんと統合された。以前は頭の中でいくつもいくつも響いていた人格の声がなくなった。大合唱のように鳴り響く「死ーね!死ーね!」という声も聞こえなくなった。コーヒーを飲もう、と思うくらいの気軽さで「あ、死のう」と思うことも、なくなった。

だから俺は過去の俺が書いた日記帳を、「死にたい」「死ぬしかない」「死ぬなら今!ファイト!」と書かれたページを、まるで他人の書いたもののように読むことができる。そのページは落ちた涙の水滴でよれて、万年筆のインクは滲んでいる。死にたくて死にたくて死ぬしかなくて、それなのに死ねなくて、生きていて、それは、あるいは、悲劇だ。悲劇を今も続けている。死ねなかったから。

 

過去の俺は死んでしまって今ここにいるのは別の俺だ。しかしながらどれもこれもが俺であり、とはいえ、死にたい俺と生きたい俺はきっと永遠に分かり合えない。生きて、生きて、何かを遺したい、と思う。今は。それが何なのかはまだわからないけれど。遺す、ということが、生きることの意味なのではないだろうか、なんて考えた。この無職期間中に。

 

来月からは就職活動が始まって、そしたらきっとまた自意識がバキバキにされて死にたくなるんだろう。それでも生きて、今の俺と未来の俺は解釈違いを起こして、今の俺はいつの間にかいなくなって駆逐されて淘汰された俺だけが残る。自分自身と闘い続けて現実をサヴァイブしていく。それは、死に続けることに、よく似ている。

がんばって生きようぜ/未来を信じること

萌えアニメを消費しているだけのときってすげえハッピーでたぶんそれはシャブやってるときの多幸感とかに似ていて(やったことないけど)結局つまり酒やタバコやギャンブルをやってるときの「何も考えなくていい」感じの幸福感と同じなんだろうと思う。

二次元の女の子はかわいい。二次元の女の子が日常を生きていたりとか、笑ったり、泣いたりしていることが、尊いことのように感じられて、頭がハッピーになって、さあコンビニにメシでも買いに行くかと思ってテレビの前から重い腰を上げて外に出た瞬間に自分のことを思い出してうわっ死にてえ、と半ばクセのように考える。一生アニメだけ見続けて生きていけたらいいのにな。一生何も考えないで、寝て暮らせたらいいのにな。そしたらそんな人生は生きてても死んでても似たようなもんだし、今すぐ死んじまってもいいんじゃねーかな、とか。考えるわけだ。

居住地域は選べるけれど時代は選べない。X方向には動けてもY方向には動けないような不自由だ。でも、そう、X方向ならどこにだって行ける、飛べる、俺はどこにだって行けるんだ!と、希望のようなものを抱いた瞬間に別の俺が「未来に期待なんてしないほうがいい」と俺を嘲笑う。未来への期待とか希望とか。それもおそるべき多幸感を脳にもたらしてくれるんだ。未来はきっと素晴らしい!と信じることができればハッピーだ。この道を行けばまちがいないと確信できれば何もこわくない。一歩一歩、確実に、目標に近づいていることを、信じることができれば未来への暗澹たる不安はきっとだいぶ解消される。

なにか、未来への目標があると、いい。そうしたらそこに向かって進んでいける。挫折しても起き上がれる力が湧くだろう。

人格が幾つもある、というほどの、ものではないけど、たとえば「夕食はカレーにしよう」と決めたとき、別の声が「本当にカレーでいいのか?」「他にもっといい夕食があるんじゃないのか?」「カレーは糖質が高いぞ」とか言ってくると何もできなくなる。そういうときに「うるせえ俺はカレーが食いてえんだ!誰がなんと言おうとカレーを作って食う!」と反論できると最高だね。俺は俺に自信がなくて俺の選んだ道に自信がないので不安になるしその不安は仮定形の不安でしかないから、未来がどうなるかわからない以上、悩んだって仕方ないのに。

あのときああしていれば、やっぱりこのときこうしていたほうが、なんて、過去を悔いても詮無きことだ。あるのは現在と未来だけで、いや、未来だって存在なんかしていない。この時点でのここしか存在しなくてそしてそれはすぐに消滅してしまう。一歩一歩進むたびに足場がさらさらと崩れ消え去ってなくなっていくような感じ。そして一歩先の場所はまだ形成されていない。こわくて立ち止まっても周囲を歩く人間はどんどん先を進んでいく。休みたい、休んだら置いて行かれる、休んでいるのに時間は流れる。時間を巻き戻せたらいいのに。そしたら。そしたら?そしたら、俺は、完璧な人生を歩み直すのに。

俺という人間はあまりに不完全だ。完璧な人間なんてどこにもいないということを、わかっていても、でも俺は俺以外の人類がとてつもなくきちんと完成されたものに見えてしまう。俺だけが紙製の人形で、他のみんなはきちんとしたシリコン素材の人形である、みたいな、そういう感じ。なんだって俺はこんなに耐久性がないんだろう。

どこにだって行ける。紙製のぺらぺらの弱っちい俺でも一応どこにでも行ける権利と肉体はあって、ぐっと力をこめて膝を曲げて跳ぶだけ、それだけ、わかっている、でもこわい、足場が不安で、安定がしていない、居場所がぐらつく、俺は俺を見失って、誰か俺ががんばるための場所を作ってくれないかななんて思ってみても残念ながら俺が俺自身の力によってそれを作るしかないのであった。しっかりと。足場を。固めて。

がんばりたい。がんばりたい、気持ちはあって、休みたい気持ちもあって、両方あるときに「休みたい」を選ぶ自分のことが嫌いで夜中にボロボロ泣いたりするんだ。でもたぶんそういうときってがんばるのは無理なんだから、今はゆっくり休むしかない。できれば俺はマグロだかカツオだかみたいに寝ているときも泳ぎ続ける魚みたいになりたかった。永遠にがんばり続けることのできる肉体が欲しいけど俺の肉体は弱っちいし、これからはどんどん老いていってだんだんもっとがんばれなくなる。肉体も脳も交換はできない。俺はこの肉体と脳で生きていくしかない。でも大丈夫、どうせすぐに死ぬし、宇宙学者によると「すぐ」というのは「10億年後くらい」という意味らしい。それなら俺はあまりにもちっぽけで、小さくて、宇宙はあんまりにもでっかくて、ああ、安心して絶望できるし、その絶望は宇宙から見れば些細なのに、俺の肉体にとってその絶望はあまりにも大きくて、色々なことがよくわからなくなるので、もう、眠る。